
【感想文】戦争と平和(第四部・完結)/トルストイ
▼戦争と平和のあらすじ(第四部・完結)
【第4部第1編第1章~第2編第19章】
とりあえずエレンが死んでニコライ花嫁争奪戦はソーニャが辞退したからマリヤが勝ってアンドレイが死んだ一方で戦争はずっと続いててクトゥーゾフの「攻撃したらアカン」という指示に各将軍は従わずグズグズだったけどフランス軍も弱体化してお互いグズグズだったのでフランス軍はとりあえずモスクワからスモーレンスクに後退して、あと、ピエールはなんか大笑いしていた……的な話。
【第4部第3編第1章~第4編第20章】
とりあえずペーチャがヘッドショットで死んで、カラターエフも死んで、ロストフ家はペーチャの死を悲しんで、ピエールはパルチザン部隊に救出されて、その間もロシア軍はフランス軍を追っかけてて、クトゥーゾフの「攻撃したらアカン」作戦はブーイングの嵐だったから結局クビにされて死んで、ピエールがモスクワに帰ってナターシャに告った……的な話。
【エピローグ】
ピエールとナターシャ夫妻、ニコライとマリヤ夫妻の平和な生活が描かれて物語自体は終了、以降の第2編では作者による歴史論が唐突に展開される。
【感想文(第4部第1編第1章~第2編第19章)】
プラトン・カラターエフの存在意義
第1編第12章~第13章にかけて、捕虜となったピエールが同じ境遇である「プラトン・カラターエフ」なる男と出会うが、作品全編を通してこの人物だけは異端である。これは作品の欠陥だろうか、いや、超人トルストイがそんなヘマをするはずがない。カラターエフは作者の知的操作の賜物だろう。というわけで今回は、カラターエフが異端であるとした理由と共に、彼がもたらす作中効果を説明する。
◎カラターエフの人物的特徴(第12章~第13章より要約):
①外見については姿全体がまるい。頭も背も腕もまるい。
②上記と同様に <<気持ちのいい微笑と、大きな茶色のやさしい目も、まどかだった>> とある。
③年齢は50歳過ぎらしいが自身の正確な年齢を知らない。また、無邪気で若々しい表情をしている。
④よどみの無い声には説得力があり、発言が矛盾することもあるが彼の話は <<美徳の性格>> を帯びている。
⑤あらゆる事柄に執着を持っていない様である。
⑥祈りの文句のほかは、何もそらで覚えておらず、自身の発言を思い出すことができない。
⑦彼による「個々」の言葉や行為は彼自身意味も分からず、また、意味を持たない。
◎仮象の産物としてのカラターエフ:
上記の通り、カラターエフは人間でありながら様子がおかしい(個性的ではなく異質である)。とはいえ、③⑤⑥に関しては捕虜生活による精神異常にも思えるが、ただ、彼の発言の内容自体は、私が読む限り「気の良いおっさん」という印象なので彼の頭がイカレてしまった訳でもなさそうである。そして、肝心である⑦に注目すると、カラターエフによる個々の言葉と行為は意味を持たないが(全体の一つの「単位」としてだけ意味を持つに過ぎない) 、そのため彼の言葉と行為は <<たえず同じように、必然的に、直接的に、その全体から流れ出る>> のだという。左記の引用は一見して意味不明だが、これはつまり、「カラターエフはそれ自体『個』でありながら『全体』の意志を持つもの」としてピエールの前に現れたのである。で、当のピエールにしてみても後年、カラターエフについて <<尊い思い出、善良なまどかなすべてのロシア的なものの化身>> と述懐しており、左記の「化身」という言葉からして、現実界に在るはずのカラターエフに矛盾を覚えていた様である。ではカラターエフは具体的に何者なのか?という疑問が湧いてくるが私の能力では直ぐに答えを出すことができない。が、諦めるのはまだ早い。ここで、前述した「化身」というピエールの考えを推し進めるとカラターエフは「超越論的仮象(※1)」と言い換えた方が適切ではないだろうか。要は、カラターエフなるものの実体は我々の能力では直感することができず、そのため、仮象(仮の姿)として残り続けてしまい、ついに誤謬や矛盾を引き起こしてしまうのである(結果、③~⑦が生じる)。よって、人間である私にも仮象が適用されるためカラターエフを異端(=リアリティを著しく欠くもの)であるとした。
※1・・・あるいは先験的仮象ともいう。超越論的仮象は認識論において多く用いられるが、本感想文では「人間理性にとって不可避的な錯覚」とする。超越論的≠超越的。
◎カラターエフがもたらす作中効果:
といったことを考えながら、トルストイはカラターエフの外見について、上記①の通り「まるい」と繰り返しており、この表記こそが第4部第3編のとある場面に直結するのだが、そろそろ感想文の文字数オーバーなので「まるい」が暗示するもの、そして作中効果(著者の意図)については次回の感想文で引き続き説明する。
以上
【感想文(第4部第3編第1章~第4編第20章)】
プラトン・カラターエフの存在意義(前回のつづき)
◎はじめに:
前回の感想文において、私は『プラトン・カラターエフの存在意義』と題し、まずカラターエフの人物的特徴(※1)および異端であるとした根拠(※2)を説明した。それを踏まえて今回はカラターエフがもたらす作中効果を説明することにする。
※1・・・姿全体がまるい、年齢不詳、無邪気、執着が無い、矛盾, etc.
※2・・・彼は超越論的仮象なるものとしてピエールの前に現れたのである。
◎カラターエフの死とピエールの見た夢:
第4部第3編第14章ではカラターエフは銃殺され、その後の第15章でピエールは夢を見る。その夢の中ではある老教師が地球儀を示しながらピエールに対し <<これが人生というものだよ>> と語るのだが、ここで地球儀の特徴および老教師の発言を要約すると以下の通りとなる。
・その地球儀は境界が無く、生き物の様に揺れ動く球体である。
・表面にはびっしりとくっつきあった無数の水滴から成っている。
・全ての水滴が動き、混じり合い、複数の水滴が一つに溶け合い、反対に一つの水滴が複数へと分裂したりしている。
・地球儀の中心に神がいて、どの水滴も広がってなるべく大きく神を映そうとするのだと老教師は語る。
・そうした無数の水滴の動きの中にはカラターエフもいるのだと老教師は語る。
◎「まるい」が暗示するもの:
かつて第4部第1編第12章~第13章にかけて、トルストイはカラターエフの外見を「まるい」と執拗に表記している。これが何を暗示するのか。よし、ここで唐突だがマジカルバナナだ。では早速やってみよう。マジカルバナナ♪バナナといったら黄色♪ 黄色といったらレモン♪レモンといったら酸っぱい♪ 酸っぱいといったら梅干し♪ 梅干しといったらまるい♪ まるいといったらカラターエフ♪ カラターエフといったらまるい♪ まるいといったら地球!!
とまあそういうわけで、カラターエフが「まるい」とは即ち、彼が地球でありこの世界全体を象徴した存在という事になり、老教師が上記で語った地球儀および水滴の様に、カラターエフは一つにして全体なのである。だからこそ、彼における「個々」の言葉や行為は彼自身意味も分からず、また、意味を持たないのであり(※第4編第13章参照)、物語上でリアリティを欠く存在として映るのは当然ともいえる。ではこうした人物を登場させた著者トルストイの意図はどういった事が考えられるだろうか。
◎トルストイの意図:
繰り返すが、カラターエフは老教師の語った通り、一つにして全体の意志を持つ有機的な存在であることから、この世界は互いに溶け合うことでひとつの完全な世界が構成されており、全体から部分的に切り離して考えることはできない。本書『戦争と平和』には、アレクサンドルやナポレオンといった特権階級からトゥーシンやマトヴェーヴナおばさんといった下っ端に至るまで非常に多くの人物が登場し、彼らの発言、思想、行動、あらゆる出来事が複雑に絡み合い、そして作品を構成していることからして物語それ自体も有機的であるといえ、カラターエフなるものは単なる登場人物という枠組みを超えて、作品世界を形作る役割を果たしているものと思われる。
といったことを考えながら、私はマジカルバナナのくだりのためにこの感想文を無理矢理書いた。
以上
【感想文(エピローグ)】
エピローグ第2編の要約
第2編のトルストイによる歴史論は分かりにくいが以下、三つのパートに分けるとほんのちょっとだけ分かりやすくなる。
【Ⅰ. 歴史の目的および従来の歴史学における問題点について(第2編第1章~第3章)】
歴史の対象は諸民族と人類の生活であり、歴史学は歴史を解明して記述することである。しかし、新旧の歴史学者の見解はいずれも「支配者が歴史を導く」と結論づけらており、これでは全ての歴史に対する解答とはいえない。例えば、歴史の本質の問題(=事件を動かす力とは何か?)について、歴史家は歴史の因果関係に「権力」という要素だけを用いるため、原因(構成要素)と現象(総体)に不均衡が生じてしまい、彼らはその不均衡を「権力」という言葉で強引かつ都合よく補填しているに過ぎない。一方、文化史家たちは原因を「知的活動」に求めるがこうした思想という漠然としたものを用いるのは歴史家同様、好都合なだけで歴史の表現とはならず矛盾が生じてしまう。先に挙げた問題、つまり歴史の現象を説明するためには「諸民族の全ての運動に見合う力の概念」が必要であり、それすらしない歴史家および文化史家は無価値である。
【Ⅱ. 歴史における権力および命令と事件の関係について(第2編第4章~第7章)】
権力を「支配者に移された大衆の意志の総和」とした場合、大衆と支配者の関係は、
① 大衆の意志は支配者に無条件に委ねられる
② 大衆の意志は支配者に条件付きで委ねられる
③ 大衆の意志は支配者に条件付きで委ねられるが条件自体が不明瞭である
の三通り存在するが、こうした言説に固執した歴史家および文化史家における歴史とは「君主と作家の歴史」でしかなく諸民族の生活の歴史が含まれていない(この言説は法学においては適用できるが歴史学では矛盾が生じる)。権力自体は現象として我々は経験しており、経験の観点から見れば、権力とは「ある人間の意志の表現(=命令)と他の人々によるその意志の実行(=命令の実行)との間にある依存関係」である。よって、命令は事件の原因とはならない。命令と事件の関係には二つの条件があり、まず、時間という条件において、命令は相応する一連の事件に合致した場合にのみ実行される。命令者と実行者の関係、例えば軍隊の階級の必然的条件において、位が高いほど事件への参加は少なく(=命令者)、位が低いほど事件への参加は多くなる(=実行者)。左記の関係が権力という概念の本質をなす(※1)。また、事件は命令に従属するのではなく、命令が事件に従属する。以上の議論を踏まえると「権力とは何か?」という問いに対する回答は「前述※1の関係」となり、「どんな力が諸民族の力を生み出すのか?」という問いに対する回答は「事件に参加する全ての人々の活動」といえる。そもそも現象には原因の概念が当てはまらず、我々に言えるのは上記2点の回答に加えて「それが人間の本性であり法則だ」という程度である。
【Ⅲ. 歴史学における自由と必然の矛盾について(第2編第8章~第12章)】
理性からすれば人間は必然の法則に従う。一方、意識からすれば人間は意志の自由を持つ。つまり「必然⇔自由」という矛盾がありながら諸民族と人類の過去の生活をどう検討すべきか──これが歴史学の問題である。そしてこの矛盾は事実、人間の生活において既に結合されており、歴史は「必然と自由」の概念を無数の現象から帰納的に定義しなければならない。ここで「必然と自由」に関する我々の観念は大きくもなれば小さくもなり、なぜなら、我々の全ての行動が、
① 外界との関係が大きいか小さいか ── 空間的条件
② 時間の距離が大きいか小さいか ── 時間的条件
③ 諸原因への従属が大きいか小さいか ── 因果的条件
という三つの基礎の上で成立するからである。よって、人間にとって完全な自由および完全な必然というものは無い。上記に挙げた空間・時間・原因への従属における「人々の自由の力のあらわれ」が歴史の対象であり(=理性の法則により定義が可能であり)、自由そのものは形而上学の対象である(=未知として残り続ける)。そのため、歴史の検討にあたっては自由を仮定してしまうと不完全であり、そのため、空間・時間・原因の従属を仮定して法則に導くべきである。
といったことを考えながら、以上は要約でしかないが、全文には作者による悲観的な感情が随所に表れており、そのせいか読者である私にとってアホほど読みづらかったがまあそれはいいとして、本書全編を通じてやはり思うのは「1,000,000文字オーバーの小説を書ききったトルストイの体力と根性はスゴすぎるでしかし」の1点のみである。
以上