【感想文】濠端の住まい/志賀直哉
『俺・エクス・マキナ』
本書『濠端の住まい』の終盤において、語り手「私」は、捕えられた猫を憐れみつつも結局、助けなかった。その理由は以下の通りである。
▼志賀・エクス・マキナについて:
前述の引用は、ごく簡単に言うと「猫が殺されるのは猫の運命だからしゃーないやんけ」であり、神の無慈悲に倣って自分も傍観を貫き通し、その結果、遂に猫は夫婦に殺されてしまう。語り手の言う「神」がどういった神なのかは本文からは読み取れないが(旧約の神ヤハウェ?)、語り手が猫を救出するなんてことはせず物語は淡々と終わる。つまり、著者・志賀直哉は写実の文士であるからして、本書に「デウス・エクス・マキナ(※1)」なんてものは適用しないのである。もし仮に、志賀が本書に対し「志賀・エクス・マキナ」を発動してしまった場合、物語の結末は「語り手が突如ヒーローに変身、ミラクルパワーで猫を救出して、夫婦をぶちのめし、猫に殺された鶏が奇跡の大復活」となるであろう。が、前述の通り志賀はそんな余計なことはしない男である。
※1・・・いわゆるご都合主義。物語において面倒な局面を全て円満解決させるために「神的な絶対者」を登場させる手法(あるいは欠陥という見方もできる)。この手法は古代ギリシャ・ラテン文学に顕著だが、シェイクスピアとかディケンズもしれっとデウス・エクス・マキナしてたりするよ。
▼俺・エクス・マキナについて:
志賀が写実の男なら僕は虚飾の男だ。私事恐縮だが私は趣味で小説を書いたりする。で、俺の書いた全作品は、主人公以外の登場人物が全員死ぬ(あるいは失踪する)のが恒例となっている。例えば、「馬に引きずられて死んだ男」「タニシの食い過ぎで死んだ女」「突然イタリアに逃亡した女」「肥溜めに落ちて死んだ猫」等々、例を挙げるとキリが無いのだが、これらは即ち「俺・エクス・マキナ」を適用した結果であり、その際の私の内心はというと──物語をキレイに終わらせるにはどうすればいいんだろう。人物Aを使って行動させるべきか。それとも人物Bに裏エピソードを持たせて伏線とかもバンバン張って……ああもうめんどくさい!AもBも死んだことにすればいいや!そうしよう!俺・エクス・マキナ発動!ってな具合である。つまり、イチイチ考えるのがめんどくさい。そんな私からすると、志賀直哉という自分自身に忠実な人間が描いた本書『濠端の住まい』は自然で好感の持てる内容であった。
といったことを考えながら、結局この感想文で私は「志賀・エクス・マキナ」って言いたかっただけである。
以上