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【感想文】城のある町にて/梶井基次郎

『屈辱の読解断念記』

恥を忍んで申し上げるが、本書『城のある町にて』を読み終えて、率直に思ったのは「ムズかし過ぎてよく分からなかったよー助けてお母さーん!!」といった事である。で、早速お母さんに電話してみたら直留守に繋がった。

そこで今回は、ムズかし過ぎてよく分からなかったよーの根拠を以下に説明する。
※特に読解困難なのが「たかしの感傷と風景の因果関係」であり、それを中心とした説明となる。

▼感傷に至る経緯について:
本書は、各エピソード毎に峻が風景を通して様々な感傷を抱くといった構成である。まずは、峻の感傷に至る経緯を把握するため、手がかりとなる描写を以下に引用する。

遠く海岸に沿って斜に入り込んだ入江が見えた。― 中略 ― どこを取り立てて特別心を惹ひくようなところはなかった。それでいて変に心が惹かれた。なにかある。ほんとうになにかがそこにある。― 中略 ― それを故のない淡い憧憬と言ったふうの気持、と名づけてみようか。・・・※1
若い女の人が二人、洗濯物を大盥で濯いすすでいた。― 中略 ― 羨ましい、素晴しく幸福そうな眺めだった。涼しそうな緑の衝立の蔭。確かに清冽で豊かな水。なんとなく魅せられた感じであった。・・・※2
「ああかかる日のかかるひととき」「ああかかる日のかかるひととき」

以上3点から、峻は他に対して憧れの様な気持ちを抱いており、また、<<羨ましい>> <<幸福そう>> といった描写から、彼の感傷とは「彼は過去に不幸な出来事があり今に至るまでそれに苦しんでいる」と察せられる。では、彼の不幸とは一体何か。

▼峻の不幸の正体について:
即座に思いつくのは「妹の死」=「彼の不幸」とする考え方である。
ここで、妹の死に関しては『ある午後』の章で次の通り触れられている。

一つには、可愛い盛りで死なせた妹のことを落ちついて考えてみたいという若者めいた感慨・・・※3
彼女がこと切れた時よりも、火葬場での時よりも、変わった土地へ来てするこんな経験の方に「失った」という思いは強く刻まれた。・・・※4
彼女の死の前後の苦しい経験がやっと薄い面紗(ヴェイル)のあちらに感ぜられるようになった ― 中略 ― そしてその思いにも落ちつき、新しい周囲にも心が馴染んで来るにしたがって、峻には珍しく静かな心持がやって来るようになった。・・・※5

上記から、一見、彼は妹の死を受け入れているようで(※3,※5参照)、実はそうではなく(※4参照)、作中の風景を通じて妹を想起している。例えば、前述の引用(※2)を見ると、峻は <<素晴らしく幸福>> を感じたとあるがこれは若い女2人が、彼の姉と妹を連想させたことによる幸福(への憧憬)と捉えることができる。左記同様に、勝子と信子を発端とする妹への感傷も複数存在するが、引用文字数の都合上割愛する。

しかし、彼の感傷は「妹の死」以外にも存在するのではないか。★ここが難解な点★

▼もう一つの感傷の可能性:
「妹の死」の他に感傷の要素が存在し得る。根拠は以下の通り。

① 前述の引用(※3)では、<<一つには、可愛い盛りで死なせた妹>> と、<<一つには>> とある。
  ⇒つまり、妹以外の不幸の存在を示唆している。
② 風景を通じた彼の感傷には「妹の死」に直結しないケースがある。
  ⇒前述の引用(※1)における、入江に対する <<淡い憧憬>>。直後の <<息苦しいほど妙なもの>> という感覚。
  ⇒『昼と夜』の章における、<<単純で、平明で、健康な世界>> という <<国定教科書風な感傷>>。
  ⇒上記の直後、葉書に対する <<えたいの知れない気持>>。

以上の引用から、彼の感傷は「妹の死」からなる過去への内省だけでなく、別の要素を契機に、上記の感覚に至ったのではないか。別の要素、それは私小説家・梶井基次郎自身の問題を峻に投影した可能性も考えられるが、いずれにせよ、本書は私の読解能力を遥かに超えている。

したがって、結論は ――――

▼結論:
といったことを考えながら、結論は「助けてお母さん」となる。

以上

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