【感想文】レ・ミゼラブル/ヴィクトル・ユゴー(第1部:ファンティーヌ)
『レ・バ刺し』
2012年7月、牛レバーを生食用として販売・提供することは食品衛生法に基づき禁止となった。
ふざけている。牛レバ刺し愛好者の私はスーパーへ行き、牛レバーを購入、これを焼かずに生で食べた。最高に美味い。ざまァみやがれ。立て続けに18切れ食べて大満足で床に就いた。すると8時間後。
尋常でない腹痛、発熱、悪心、嘔吐、頭痛、悪寒、血便に襲われた私はトイレにて悶絶、何故俺だけがこんな目に遭わねばならぬのか、朦朧とする意識の中、我が脳裏をよぎったのは本書『レ・ミゼラブル(岩波文庫,第1巻)』であった —— 憐れなファンティーヌ、貴女は変わらず美しい。が非業の死を遂げた。俺も直に死ぬ、貴女と同様の境遇、後を追って死ぬ、だが本当に同じ境遇といえるのか。作品の舞台は1815年、ファンティーヌは「貧困」のスパイラルから抜け出せず死んだ。ウィーン体制下における貧困の象徴、それが彼女なのかもしらん。しかるに、俺はどうか。貧困でもなければ貧乏でもない人間が生レバ食って死にかけてるだけではないか。この点で俺と彼女の境遇は全く別モノであり、唯一の共通点は犬死 —— ジャベル、貴様は法の支配、無慈悲なる義務の精神によってファンティーヌを殺した。私も食品衛生法により今まさに殺されかけている。法の精神を俺は否定はしない、しかしそれを補う倫理観は必要だろう、法令遵守の徹底で新しい時代が切り拓けるとでもいうのか。生レバで死ぬ私。少なくとも『第1部:ファンティーヌ』には、自由も平等も人間の尊厳もない、あるのは借金だけだ。薬を飲めば薬を吐き水を飲めば水も吐く。それは俺が。唇がやけに渇く、脱水症状だろうか。まだ耐えろ。
いやまだ耐えろ。そういえば『プティー・ジェルヴェーの40スー銀貨略奪のくだり(第2篇13章)』は私のレバー生食と似ている。つまり悪行であり、ジャン・ヴァルジャンは銀貨略奪という最後の悪行をきっかけに改心した。そんなら俺もこれを機に改心して今後、レバーは焼く。でも、そんなことが本当にできるのか、無理だ。だってそうだろう。あの限りなく聖人に近いジャン・ヴァルジャンですら『第7編3章:脳裏の暴風雨』において <<汝の名前を隠せよ!>> と <<汝の魂を聖(きよ)めよ!>>P.396 という矛盾を長きに渡り苦しみ続けたのだから。レバーは焼くとマズい。生で食えばいいものをわざわざひと手間加えてマズくしてどうする、ワレなめとんのか。もう限界、そろそろ救急車か。待て、あと少しだけ。
少しだけ。私は今ようやく気づいた。本書の序文には <<地上に無知と悲惨とがある間は、本書のごとき性質の書物も、おそらく無益ではないであろう。>> とあり、<<無知>> の象徴、それはテナルディエ夫妻であり、無知による幸福追求は悲惨を生む。そうか私にとってのレバー生食とはテナルディエ同然の単なる「愚」「野蛮人」そのものを現代に体現しただけであり、してみれば、俺はファンティーヌでもジャン・ヴァルジャンでもなくテナルディエが妥当であろう。近代精神なぞ最初から俺には無かった。成程、納得。後はゆっくり死ぬのを待つだけだ。
といったことを考えながら、震える手で本棚から取り出した『レ・ミゼラブル第2巻』を吐きながら読み始めた。
以上