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【感想文】トム・ソーヤの冒険/マーク・トウェイン

『著者介入に関する注文 ~岩波のレミゼに寄せて~』

本書『トム・ソーヤの冒険』における「地の文」は、著者マーク・トウェインのユーモアセンスが発揮されており、それは読者を物語に惹きつける推進力があることからして、はっきりいって名作だと私なんかは思う……だが、でも、しかし、その上で、無粋を承知で、誠に恐れ多いけど、著者の語りについて注文がある。で、それは以下。

▼表記の形式について:

本書の表記は「三人称神視点」が採用されており、この場合の「神」とは著者マーク・トウェインという個人である。ここで、純粋な「神視点」の場合は、物語の顛末を把握した上で人物の言動・心理を描写することになるのだが、一方で本書に採用された「著者視点」の場合だと、先に挙げた神視点の特徴に加えて、地の文において「著者による介入操作(言及・評価)」が行われるため、著者の個性が地の文に表れてしまう。ともすれば、その介入は読者に対して不快をもたらすリスクがあり、これを例えるなら「車を運転してる時に助手席でガタガタぬかしてくるヤツ」とでも言おうか、つまり、物語を読むのは我々読者であるにも関わらず、第三者に口出しされるのはすんごい鬱陶しいのである。それでは、以上の特徴を踏まえて著者視点による成功・失敗のケースをそれぞれ紹介する。

▼著者の介入が成功したケース:

第21章の発表会の場面では、発表会の目玉として女生徒達による作文が披露されるのだが、その作文に対して著者は、

<<「美文調」の無意味な、大量の連発>> とし、さらに <<何より目立って作文を損ない、傷つけているのは、結末において、必ず一本の例外もなく、根深い、耐えがたい教訓癖がその不具なる尻尾を振ってみせるという事実であった>> と著者は嫌悪感を示しながらも、なぜか教室中は <<万雷ばんらいの拍手が湧いた>> そうで、それにも関わらずその場に居た人は <<「頭顱とうろ」とは何なのか、知っている人はほとんどいなかったが、誰もが堪能した>> のであり、結果的に <<こうした悪夢が原稿にしておよそ十枚分続き、長老派の信者を除く万人のあらゆる希望を打ち砕く教訓でもって締めくくられたので、一等賞はこの作文に贈られた>> という。

以上は抜粋ではあるものの第21章全編を通して読むと、著者による淡々とした皮肉が面白く、そして多くの読者が感じていたであろう、作文の評価を <<悪夢>> と的確な言及をしており痛快である。本書ではこうした介入が多く見られ、そのほぼ全てにおいて成功しているが稀に失敗することもある。で、それは以下。

▼著者の介入が失敗したケース:

第3章では、トムがベッキーに恋焦がれるあまり彼女の家の庭に忍び込むのだが、その顛末を著者は以下の通り描写する。

トムはベッキーが住む、<<窓の下の地面に身を横たえた。仰向けに横たわり、両手を胸の上で組んで萎びた花を握った。こうして自分は死んでいく。冷たい世界に放り出されて、家なき頭を覆う屋根もなく、額から死の湿りを拭ってくれる優しい手もなければ、大いなる苦悶が訪れる際に情のこもった顔が哀れみの眼差しを投げてくれることもない(※1)。──中略── もはや命なき体に、彼女は小さな一粒の涙を落としてくれるだろうか?若く輝かしき生が、あまりに無残に萎れ、あまりに早く切り落とされたことに、ささやかな吐息を漏らしてくれるだろうか?(※2)>> とトムの内面を描いた直後、窓が開き、女中がトムめがけて水を浴びせた結果、<<横たわる殉教者の亡骸を浸した!(※3)>> のである。

上記の多くはトムの内面にも関わらず著者の介入が激しい。まずトムの知性にそぐわない言葉(※1および※2が該当)が続出しており、こうした大袈裟な表記で緊張感を伝えておき、次の場面で「水を浴びせられるトム」というオチをつけるために用いられたものと思われる。つまり、笑わせようという意図が見え透いておりこれが良くない(なお、上記※3はトムではなく著者の言葉なので問題無い)。それだから、トムの心理はやはりトムの言葉でなければ読んでいて混乱するだけであり、この様に著者視点による表記は、失敗すると作為の感が顕著に表れてしまうため相当な筆力を要する手法なのである、と私は一人で勝手に思っている。

といったことを考えながら、岩波文庫版の『レ・ミゼラブル』、通称「岩波のレミゼ」における翻訳者の冗長な表記、および、著者の修道院論・下水道論──こうした事柄はわざわざ小説に書く必要のない「別件」といってよい。

以上

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