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【感想文】千代女/太宰治

『何を偉そうに。』

何かしらの作品を世に出した以上、その値打ちは世間が決める。

そのため、本書『千代女ちよじょ』はまあまあ当たり前のことが書かれており、当事者である和子が周囲からの一方的な評価に困惑して気が狂いそうになるのは、彼女の年齢からして十分あり得る話だろうし、同様の感覚に陥った若者も多いかと思われる。また、作品だけでなく才能とやらも自分で自覚したり決定できる代物ではなく、社会の相対評価の元で結果を随時くだされることになるため、当事者の和子にしてみれば終始「どないせえっちゅーねん」でしかない。

といったことを考えながら、和子の様な話は身近にも存在するので最後にそれを紹介して感想文の締めくくりとする。

▼作品の評価と印象に関連する話:
この話は別の記事にも書いたけど、車谷長吉の『赤目四十八滝心中未遂あかめしじゅうやたきしんじゅうみすい』という小説が直木賞を受賞したのは大いに違和感である。直木賞は大衆・エンタメ系の小説に与えられるはずだが『赤目~』はモロに純文学だからであり、これは選考者だけでなく著者も含めて作品評価に何かしらの意図があったんだろうけど、一般人の私からすれば「直木賞っていうよりむしろ芥川賞ではないのか?」という疑問が残る。これと同様に、とある漫才コンテストである漫才コンビが優勝した際のネタを「これは漫才っていうよりむしろコントではないのか?」と多くの一般視聴者が彼らを批判したそうだ。これに対し審査員やプロの芸人は多くを語らず、「漫才のプロが審査する以上は漫才である」と述べたそうだが、ついでに私の見解はというと「笑いは世相を反映する要素が強いので昔ながらの『しゃべくり漫才』にいつまでも固執する必要はなく、新機軸の『コント風漫才』があってもいいじゃん」である。つまり、審査員や視聴者も含む全関係者の立場と世相(世代)の違いが軋轢を生んでいるだけの話なのであって、この板ばさみに遭った漫才コンビは『千代女』における和子と同様、選者の岩見先生と沢田先生と父と母と叔父に翻弄されている状況にまあまあ似ている。

▼才能の自覚と発揮に関連する話:
甲子園で活躍した高校球児が卒業後、そのまま高卒ルーキーとしてプロ入りするか、大学卒業後にプロ入りするか、社会人からプロ入りするかで選手生命を左右することがある。例えば、試合中にハンカチで汗を拭う姿が印象的だったある甲子園優勝投手は高卒でプロ入りするのかと思いきや、大学へ進学し、そこで何があったのか私は知らないが、彼は大学卒業後にプロ入りしてからというもの、成績は一向に振るわず、とうとう一昨年引退した。甲子園優勝時点では己の才能を疑い、大学野球で才能の有無をじっくり見極めたかったのだろうか。あるいは、大学野球で酷使されてケガでもしたのか、変な投球グセでも仕込まれたのか、そもそもプロ入りの意志はなく世間の人気に後押しされた結果、イチかバチかのプロ入りだったのだろうか。本書『千代女』の和子は十二歳で大賞を取った時点でそのまま文学に打ち込めば作家として大成したかもしれないし、大賞受賞は単なるマグレだったのかもしれないし、十八歳現在で才能はとうに枯渇していたかもしれないし、まだしてないかもしれない。そうしてみると、己の才能を自覚の上でそれを発揮するタイミングを決定するのは和子が語った通り、<<今に気が狂うのかもしれません>> である。

以上

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