〜悪魔祓い〜
昨年公開された『ヴァチカンのエクソシスト』。
懺悔、赦し、悪との対峙の中で、映画やアニメの中だけではない、私たちの日常にも通じることがあったので、今日は「悪魔祓い」をテーマに書いていこうと思います。
従来のホラー一辺倒の『エクソシスト』とは一味違い、インディジョーンズのようなアドベンチャーあり、人の弱さと強さ、成長、祈りの力、そしてカトリック教会の異端審問の闇歴史についても触れるストーリーで、実に面白く冒頭から引き込まれあっという間の100分でした!
グラディエーターでアカデミー賞主演男優賞受賞した私も大好きな名優、ラッセル・クロウ演じる主人公、ガブリエーレ・アモルト神父による悪魔祓いは、ヴァチカンのローマ教皇に仕え、生涯に渡り数万回の悪魔祓いを行ったと言われる実在のエクソシスト(悪魔祓い)の実録がモデルとなっています。
医療が発達し悪魔祓いが疑問視される中、神父はローマ教皇からの依頼を直接受けて、強力な悪魔に憑依された少年ヘンリーの元へと向かいます。
現地にいる若き青年神父が助手となり、悪魔に挑むアモルト神父。
悪魔祓いに挑む直前、「罪を告白しなさい」と迫るアモルト神父に、「え?今ですか?」と戸惑う若き神父。
「悪魔は弱みで人を揺さぶる。解消されていなければ、悪魔はそこに気がつく。」
以前の私ならば、若き神父と同様、「なんで今?そんな場合じゃないでしょう。」とアモルト神父に口答えしただろう。
その上、懺悔(ざんげ)で罪が許されるなんて、そんな都合のよい話があるもんかと言いたくなるところですが、ちょっと待て。
ここ2年ほどの実体験を元に、”赦される(赦す)”ことの意味、罪悪感から解放されることの重要さがよくわかる。
ただ罪を告白して許されようという邪な心では許されない。
【悔い改める】から懺悔なのだ。
ありのままの罪を認め、告白する。これはとても勇気のいることです。
そして悔やみ続けるだけでなく、【改める】。
悔やんでいるのに、行動に移せてないことって結構あるもんです。(ドキっ!)
仏教にも、懺悔(さんげ)があります。
人間誰でも過ちは犯すもの。そして過ちを犯した時に悔い改めることは日々の修行となります。
今なら神父に100%同感だ。
内なる悪魔と立ち向かう時に、自分の弱さをわかっておくことは需要なのです。
鬼滅の刃・無限列車で、鬼・魘夢(えんむ)に炭治郎が見せられた悪夢がまさにそれ。
家族からの言葉に胸が締め付けられる。
「なんで助けてくれなかったの?」
「何のためにお前がいるんだ。役立たず。」
「よくものうのうと生きていられるわね。」
これは炭治郎が家族を失ったことから胸に抱いていた罪悪感や後悔、疑念といった弱みに鬼が揺さぶりをかけたものです。
ではどうやって切り抜けたのか。。。
「俺の家族がそんなことを言うわけがない!」
真実を見分け、認め、宣言したことで、自ずから疑念を晴らしたことが伺えます。
そしてわかっているつもりでも、解消されるまでは何度でも向き合う覚悟も必要です。
アモルト神父はもちろん自身の弱点を把握していましたが、今も尚、後悔と罪悪感に苛まれていることがありました。
それは己の【傲慢さ】が招いてしまった少女の死。
悪魔祓いの依頼の98%は精神疾患、残りの2%が悪魔祓いが必要とされます。
そのため適切な治療が何か、また任せるべき機関がどこかを見分けることもエクソシストの重要な仕事になります。
少女が精神疾患だと見分けた神父は、自分はエクソシストだからという【傲慢さ】から、精神疾患の患者は関係ないとあっさりと他者に任せてしまいます。
そして少女がその命を神父の目の前で断ったあとに、彼女が大人から暴力を受けていた事実をバチカンが隠蔽していたことを知ります。
青年時代、戦争で自分だけ助かったことに複雑な思いを抱きながらも、助けを必要とする人のために生きることを誓ったのに、傲慢さからそれを忘れて少女を死なせてしまったという後悔と罪悪感。
これを何度も何度も悪魔に幻想として見せられ、その度に心は揺さぶられ、くじけそうになります。
アモルト神父は、今まで誰にも打ち明けられなかった胸中にあったものを若き神父に心から懺悔し、強さを取り戻します。
少女の一件からは、気持ちを改め、より一層人々のために勤めてきた自分を認め、許すことができたことによって、悪夢を断ち切ったのです。
さてここで、意識や感情にエネルギーの数値があるとすれば、悪魔が映画の登場人物を揺さぶった感情の数値はいくらでしょうか。
下の図は、ひすいこうたろうさんのブログ「運がいい人悪い人、何が違う?」より。
皆さんは、どのレベルの意識と感情をお持ちでしょうか。
⚠ここで注意したい落とし穴は、「赤線より上の方が当てはまるから私は大丈夫。」という考え。
90%の意識が愛や喜び、平和だとしても、10%の恐怖や悲しみのもつ力は侮れない。
うまくいきやすいときと、そうでないときとがあるのは、意識や感情エネルギーに変化があるからというのは納得がいきます。
高いエネルギーで行動を起こすと1つ行動をとっただけでも叶いやすく、低いエネルギーで何度も行動してもなかなか叶わないこともよくわかります。
かといって赤線より下の意識を無くすことは人間である以上、不可能に近いでしょう。
ではどうすれば、高いエネルギーを保つことができるのか。
揺さぶられながらも大丈夫な心を持つことができるのか。
太字で書いてきた部分が、私が受け取った答えです。
告白(懺悔)は必ずしも他人にしなければいけないものではないと私は思います。
ただ信頼できる誰かに話すことで、新しい道が見えてくることもあります。
まずは自分の中にある思い、感情を無視しない、どんな感情が自分の中にあるのかをありのままに知ることから始めてみましょう。
愛をこめて
たまひろ