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「障害は個性」だという考え方に対して新人教員になる僕が思うところ

「障害は個性」だという考え方が世の中にはあります。この考え方に対して、今日は僕なりに経験を交えて意見を述べてみたいと思います。

結論を先に述べると、その考えを正しいと思う一方で、その考えを肯定したいと思えば思うほど、現状はあまりにも不平等ではないかと思うのです。

以前投稿したnoteで、どうして公立小学校の先生になるか記事にまとめた際、特別支援教育に触れたことで、僕の中で当たり前が崩壊する日々を過ごしたと記しました。

今日は、過去の僕がどんな経験をして、その時何を感じ、今の考えに至ったのか述べていきたいと思います。

出会い

大学時代、僕は特別支援教育を専攻していたものの、大学に入学するまで、特別支援学校に通っている人(一般的に障害者と言われている人)と関わったことがありませんでした。

そんな僕が彼らと初めて出会ったのは、あるボランティアサークルの活動に参加した時でした。

そのボランティアサークルは地域の特別支援学校に通っているお子さんと一緒に公園や遊園地、博物館に行くイベントを定期的に行っているサークルでした。

僕はそこで学部の先輩と一緒に、男の子の担当になりました。

初めて障害者と呼ばれている人と触れ合ったとき、僕は彼らに“恐怖”という感情を抱きました。

彼らの行動が予測できないだけでなく、どうしてその行動をしているのか理由が想像できなかったからです。

正直、人じゃないとさえ思いました。

そのボランティアの帰り道、友達に胸の中に溢れていたなんとも言えない感情を、勢いに身を任せ、話し続けていた自分が懐かしいです。

恐怖の感情と周りの同期が何事もなく彼らに寄り添っている姿を見て、何もできない自分の不甲斐なさに怒りの感情が芽生えていたのかもしれません。

4年間を経て

それから僕は、そのボランティアを4年間を続けました。

ボランティアで障害者と呼ばれてるいる人達と関わることを通して、彼らに対する考え方が大きく変わっていきました。

まず、彼らはものすごく人間らしいのです。

ある男の子がトイレで手を洗っていました。するとすぐに彼は自分の着ていた服を脱ぎ出してしまいました。

僕はどうしてこうなったのか想像することができず、彼にどうして服を脱いだのか尋ねました。

すると彼は
「気持ち悪かったから」
と教えてくれました。

彼が手を洗っている際に、水が跳ねてしまったようで、確かに服の袖がほんの少し濡れていました。
濡れた服は着心地は悪く、気持ち悪いです。
そこで彼はそんな服を着ていたくないので、服を脱いだそうです。

もしかしたら普通の人と呼ばれている人はそんな小さなこと我慢すればいいと思うのではないでしょうか。

もしかしたら、そうする方が良いのかもしれません。しかし、気持ち悪い服を着ていたくない。自分の感情に素直な彼、自分が心地が良い状態でいるために行動する彼は、普通の人よりもどこか人間らしいと感じるのは僕だけでしょうか?

その出来事から彼らへの見方が変わっていきました。

彼らには確かにできないこともあります。しかしながら、できることもたくさんあるのです。当然です。彼らは人なんですから。

障害者と呼ばれてる人達は、弱い存在ではなく、僕達と同じ、得意苦手のある人なのです。

僕は障害と呼ばれるものは、人参が食べられないことと同じくらいなのかなって個人的に思っています。

人参が嫌いな君が人参を無理矢理食べさせられたら苦しいように、席に座るのが苦手な彼を無理矢理座っていることは苦しい。

でも君が頑張って給食で人参を一つ食べるみたいに、彼も頑張って少し席に座ってみる。

こんな感じで、たまたま得意なことや苦手なことが「障害」と呼ばれるものに分類されるだけなんじゃないかなと考えるようにしています。

だからこそ「障害は個性」という考え方は的外れではないと思うんです。

「障害は個性」なのかもしれないけど、、、​

でも、その一方でこんなことを感じている自分もいます。

彼らの苦手なことが他の人の「個性」と変わらないのだとしたら、この社会は、彼らの「個性」に対して、異常なくらい優しくないというか、彼らに対して理不尽だと思うんですよね。

「障害」の捉え方の一つに、社会が作るものであるという考えがあります。

「障害」は社会が作るものであり、社会が変われば「障害」も変わる。医療やテクノロジーが発展し続けている現代においては、本当の意味で「障害」は存在していない。「障害」が存在しているのは、テクノロジーの進歩が未成熟であるか、社会や周囲の人が「障害」にしているだけだと。

だとしたら、今の社会は彼らに優しくない。

あまりにも彼らの「個性」を受け止められる土台が社会や周囲の人になく、彼らが活躍できない息苦しい社会になってしまっているのではないでしょうか。

普通の人と呼ばれている人が活躍しやすい都合のいい社会を作り出してしまっているのではないでしょうか。

障害者と呼ばれてる人も、普通の人と呼ばれている人も、同じ人です。

だからこそ、誰しもが活躍できる社会を作るためには、障害者と呼ばれている人の周囲の人を変えていくしかありません。社会を変えていくしかありません。

「障害は個性」だという考えは正しいのかもしれません。だけど今の状況では、活躍しやすい普通の人と呼ばれている人が都合よく言っているに過ぎないのかもしれません。

そうだとしたら、みんなが胸張って「障害は個性」だと言えるように、周囲を、社会を変えていくしかありません。

僕は教育で、その未来を実現することが可能だと信じています。

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小泉しのぶ(小学校教諭×起業家→教育委員会×起業家 )
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