どうして、今、公立小学校の先生になるのか

「教員なんかになるの?」

僕の進路を言うと数回に一度はこのセリフが返ってきます。

現在、教員を取り巻く環境は厳しいものがあります。ブラック部活にモンスターペアレント、サービス残業という名の過剰労働など、あげたらキリがありません。

そんな状況だとわかっていながら、どうして僕が教員という職業を選ぶのか、その経緯を時系列に沿って話たいと思います。

教員を志すまで

僕が最初に教員を志したのは、高校一年生の文理選択のタイミングです。
僕の家は父が飲み好きだったこともあって、毎週末我が家では宴会が開かれていました。

子どもが小さいうちは、大人が子どもの面倒を見ていたのですが、子どもが成長するにつれて、大人達は飲み会を楽しむことに集中するようになりました。
そうなっていくと、子どもの中で一番年上の僕が他の子どもの面倒を見る担当に自然となっていました。 

最初は一緒に遊ぶ程度でよかったのですが、段々子どもが大きくなるにつれて、宿題を教えたり、テスト勉強に付き合ったりするようになりました。

そんな教えることが日常にある環境だったこともあり、文理選択のタイミングで、どんな職業になりたいかと考えた時に、自然と教員になろうと思いました。

教員を志すことを諦める

そこから勉強して、教員養成系大学に進学し、特別支援教育に触れたことで自分の当たり前が崩壊する日々を過ごします。その経験から子どもの可能性を大事にする仕事がしたいと思い、なんとなく、流れで、よく考えず教員になろうとします。

学部時代は特別支援教育を学んだ一方で、通常級の子への教育を学ぶ機会は多くはありませんでした。通常級にいる子ども達と集団でどのように関わればいいのかわからず、このままでは教員になっても子どもの可能性を潰してしまうかもしれないと思い、教職大学院へ進学を決意します。

教職大学院では、現場で活躍されている現職の先生やそれぞれ異なる専門性を持った出身大学も学部も異なる同期と切磋琢磨していました。教職大学院の授業や色んな学校を見る中で、教育の奥深さと可能性、そして責任の重さを知ることになります。

すごい学校やすごい先生を知れば知るほど、自分の無力さに絶望し、教育の理想を考えれば考えるほど、現在の学校教育に絶望していきました。

学校教育の仕組みや環境を変えようと文部科学省や経済産業省をはじめ、多くの企業が様々な取り組みをしています。しかし、仕組みが変わったからと言って、要となる学校現場は変わろうとしていないように感じました。実際、ICT環境が整った学校でiPadを活用できず、ただの荷物にしてしまっている学校や学習指導要領が変わっても授業を変えられない先生が多くいるという事実にただただ苦しくなりました。

その時、僕は教員になりたいと思うことを諦めました。

教員を志すことを諦めた、その先に、、、

そこからの僕は、何を目指していいのかわからず、でも教育から離れられず、ただただがむしゃらにもがいていました。

色んなワークショップに行き、外の世界を知ることで、自分の中の空白を埋めようとしていました。今思えば、立ち止まってしまうことが怖かったのかもしれません。

そんな日々を過ごしていた時に、教職大学院一年の夏、ある合宿で、ある人に出会います。その人のことを僕は、やすこさんと呼んでいます。

やすこさんは映画「みんなの学校」で有名な大阪市立大空小学校元校長の木村泰子さんという人です。パワフルでエネルギッシュ、それでいて誰よりも子どものことを想っている。

そんなやすこさんと出会い、やすこさんと一緒に時間を過ごしていく中で、自分の中の色んな想いが溢れてきました。

そして、合宿二日目の夜、やすこさんが僕にくれた最後の言葉、

「次の教育は任せたよ」

その一言を聞いた時、僕は涙が止まりませんでした。その一言でこれまで教育に捧げてきた日々が、無駄じゃなかったと思えたからです。あの時、僕は教育の道に進もうと決意したのでした。

ただ、教員になろうとはそのときはまだ思えていませんでした。

それから教育に没頭する過程で、 僕はFacebookに流れてきた投稿をキッカケに、ある起業家と出会います。

その人が始めた新しい学びの形を模索するという挑戦に、気づけば巻き込まれ、気づけばNo.2として100人近い人をまとめる努力をすることになりました。残念ながら、その挑戦は道半ばで終わってしまいました。だから、あの挑戦した日々が必ずしも上手くいったとは言えません。

しかし、僕はあの挑戦を通して、多くの人と出会いました。若手官僚や起業家、学校以外で教育に関わっている人、これまで出会ったことのない人達と繋がることができました。

この挑戦を通して、学校教育の価値と可能性を再認識することになります。また、学校の先生がそれ以外の人からどのように見られているか、学校の先生がどんな存在だと思われているか知りました。

そして、彼らと関わっていく内に、教育を学校教育の仕組みの部分や学校の外から変えようとしている自分よりも凄い人がたくさんいることに気づきました。

この挑戦を終えて、自分が本当にやりたいことは何か、立ち止まって考え始めました。

そして、僕は教員を志す

そして迎えた教職大学院二年の春、研修でお世話になった小学校に行った時に、僕を変える出来事が待っていました。

入学式の途中、新一年生に向けて歓迎の演奏をするために、新二年生が会場に現れました。

新一年生の中には、長い長い入学式で、椅子にじっと座れない子もいました。そんな彼らと一年しか変わらない彼らが、堂々と新一年生の前で演奏をやり遂げるのです。新二年生は、僕が前年度配属されていたこともあり、彼らのわんぱくぶりは大変よく知っています。そんな彼らがこの一年間でどれだけ成長したのかを目の当たりにした時、僕は涙が止まりませんでした。

その時、僕は子どもの可能性の大きさを感じるとともに、その可能性を引き出すことのできる学校という場所の可能性の大きさを体感したのでした。

その日の放課後、僕が帰りの支度をしていると、五年生の先生方が集まっていました。なんの話をしているのか気になって、話し合いに混ぜて頂きました。そこで先生方が話し合っていたのは、始業式後のクラスびらきの内容でした。自分がどんな話をしたのか、どんな反応だったのか、これからどんな仕掛けを用意しているのか、よりよいクラスにするために何が必要か、互いにアイデアを出し合っていました。子どものために妥協せず、ひたむきに努力している姿から、教員と呼ばれている人たちの情熱を再認識しました。

学校の外に出れば出るほど、今の学校の教員になっている人は大半が価値がないと言われ続ける経験をしてきました。時には、「先生なんかになるの?」と言われたりもしました。僕も教員の価値がわからなくなりました。

でも、この経験を通して、子どもの多くの時間に寄り添うことができる学校の先生の職としての価値を再認識しました。

そして、僕は教員養成課程に六年間いて、これから先生になろうとしている凄い人達をたくさん知っている。現場で子どものために身を削って頑張っているたくさんの人たちを知っている。

あの人達が価値がないとは思わない!思えない!

でも、これだけ言われるということは、先生も変わらなくてはいけないところもあるのかもしれません。

その一方で、先生への見方が変われば、色んな人が共に教育を変えていけるんじゃないかとも思うようになりました。


だからこそ僕は、

【先生にアプローチすることで学校教育を内側から 変えていきたい】
【教員と教員以外の人を繋ぎ 共に教育に携わり 教育をより良くしていきたい】

と思うようになりました。

ただ、いくら学校の外から教員に変われと言っても教員は変わりません。なぜなら教員の中には、教員の言うことしか聞かない人が多くいるからです。

そして、僕は学校現場で働いていないので、本当に教員が変わらなくてはいけないかわかりません。

だからこそ僕は、学校現場に出て、そのリアルを知らなければいけません。そして、本当に変えた方がいいのであれば、自分なりに少しでも良くなるように挑戦したい。誰かのロールモデルになれるような人になりたいと思っています。

そして、その挑戦が「私立だからできた」「附属だからできた」なんて言わせたくないと思う自分がいます。

だからこそ僕は、子どもの可能性を少しでも広げていくために、公立小学校の教員になろうと思います。

長々とすみません。
これが、「たまごせんせい」が公立小学校の教員になる理由です。

四月から頑張るぞ〜!!

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小泉しのぶ(小学校教諭×起業家→教育委員会×起業家 )
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