主観だらけのおいしさ。『神林先生の浅草案内(未完)』神林桂一
その人の嗜好や思考、人柄が表れた、うんと偏(かたよ)った感想が好きだ。食べ物、映画や音楽、本。偏っていればいるほど、いい。
偏っているというのはつまり、書き手の人柄が伝わる主観たっぷりのもの。一般的な情報誌であれば「実家の母の味に似ている」「これまで食べたなかで一番」などと書くと、即座に編集部からの指摘が入るけれど、主観ならお構いなしである(媒体にもよるかもしれないけど)。その人を心をどれだけ揺らしたかがダイレクトに伝わると、自分だったらどうだろうかと俄然興味が湧く。そしてこの神林先生の感想は、とにかく偏っていて、愛情に満ちている。
都立浅草高等学校の国語教師、神林桂一先生は、食べ歩きに情熱をかけ、愛車(自転車)で浅草の街を縦横無尽に駆け回っていたという。そして心を揺らしたお店を集めては、瓦版のようなミニコミ誌として職場で配布していた。その集大成であり、ときに街と食の歴史を織り交ぜながら紹介したのがこの一冊。「未完」とついているのは、神林先生が急逝されたからである。
読み進めているうちに、満州から引き上げた母親と、神風特攻隊だった父のもとで育ったことや、新婚旅行がフランスだったことなど、会ったこともない神林先生の人となりが伝わってくる。食文化と浅草の歴史への造詣が深く、その豊かさにいつの間にかグイグイ引き込まれ、浅草という街そのものが好きになる。
掲載はランチがメインだから、下戸のわたしも肩身の狭い思いをしない(後半はひとり飲みランキングも載っている)。こう言ってはなんだけれど、おじさんが昼休みにふらりと行けるようなところばかりだからか、気後れするような気取った雰囲気の店はない。浅草という土地柄もあるのだろう。どこもおおらかで、おいしいものが好きな店主の顔が見える。
浅草エリアに絞ったラインナップは、うちから自転車で行けるところもたくさんあり、それもまたいい。いつでも、どれでも行けるという安心感もある。とはいえ、「いつでも」行ける店は、「いつまでも」ある店ではないと肝に銘じつつ、この本を片手に、あちこち食べ歩いている。
先日はこの本から、甘味処の「三島屋」へ出かけた。もんじゃにたこ焼き、お好み焼き、あんみつ。地元で作られている昔ながらのラムネは冷蔵庫からセルフで取り出す。注文の品が出てくるまでの間、子どもたちは「ドラえもん」を読む。神林先生が『甘さは控えめ。甘いものは苦手な僕でも2、3個はペロリだ」という今川焼きは、小ぶりなサイズながら熱々のあんこがあふれんばかりにたっぷり。そしてなかなかに甘く、とろっとしていて最高においしい。が、わたしは1個でじゅうぶんだった。無論、そこにがっかりなどしない。
食べれば消えるはずのおいしさの向こう側に、もうひとつおいしさが見つかるような、そんな店がこの一冊には詰まっている。
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