2024.6月のおたよりコーナー
質問箱にいくつか質問が来ていたので、おたよりコーナーと題して応答をしてまいります。
沢山送っていただいてありがとうございました!
①
ソフトドリンクも用意するので大丈夫です。コーヒーなんかもありますから。
あ、お酒を止めていて、お酒を皆が飲んでいる場所に行って我慢できなくて飲んでしまうのが怖い、とかやと、そうですね、大丈夫じゃないかもしれない。
②
最終だと、1000年、2000年後にも講談が残っていて、その事実に寸毫でも寄与できていること、になります。
お笑い芸人さんのライブとか行くと、その目標は当然その場の空気が盛り上がること、受けること、そして大目標としては、賞レースで勝ち抜くこと、売れること、金持ちになること、になるわけで、あの方々は自分の人生ですべてを完結させる必要があって、それが空しくもあり、はかなくもあります。
そういう意味で伝統芸能は心的に健康化と思います。
貢献を夢想して死んでいけますから。
まあ、どのみちいつかすべて滅ぶのですが。それでもこの人生は死ぬまで続いていくので、どうせなら幸せな誤解の中に己を堕して幸福に死んでいきたいものです。
③
都知事は小池さんができたんだから蓮舫さんもできる、と思っています。
石丸さんは向いてないと思います。
内海さん。知らないですねえ。ただ、陰謀論の思考法と行政の運営は食い合わせが悪いでしょうね。
内野氏。今のところしんどう伸夫氏が都知事選に出ている中では一番かわいいです。しんどう氏を超えるかわいさが出せるか、がポイントだとは思いますが、都知事は別にかわいくなくて良い。まあ石原、猪瀬、舛添、かわいげはある方々は多いですが。
選挙自体について。
これ、本当に悲しいことなんですけれど、選挙に対して前より興味が薄くなってしまいました。
僕は愉快犯的な出馬や当選や主張が目的でない出馬があまり好きではないのです。
うーん、例えば。M-1 グランプリは好きだし、フリー無所属アマチュアに開かれた大会であることは素晴らしいと思ってはいます。それは守られるべきです。
ただ、優勝どころか2回戦に進むことも考えていない記念受験で漫才になっていない面白くない会話を聴かされたり、政治的主張をただ語ったり、もっと悪質な、場を荒そう、だとか、M-1の隆盛が気にくわない人間の妨害的パフォーマンス、が続くとげんなりすると思うのです。
そういう感じ。
僕は立候補者たちの真剣さこそを愛し、その真剣さがぶつかる場としての選挙を愛していたのに。
今まで好きだったものが、大きく変容してきている感じです。だから気持ちとしては少し冷めてしまっている。
選挙が「普通の人には近寄りがたい奇祭」みたいになってきている感じすらある。
それでもやっぱり選挙のことは考えるわけで。
愉快犯的に出馬をする人の言説でよくあるのが(今日もNHK党の演説で頻出でしたが)「政治に興味のない人に興味を持ってもらいたい」というもの。
確かに変わったこと、珍奇なことをしていると、今まで興味を持たなかった層が選挙に興味を持つかもしれない。しかしそういう候補を見るたびに例えば僕は、なんだか辛い気持ちになって選挙に興味を失ってしまう。
これはままあることだと思うのです。
政治好きの政治離れがおこる。
果たしてそれはより良い行政や立法の責任者を選ぶことにつながるのか。
そうとは言えないんじゃないか。
だからといって、選挙の立候補にこれ以上条件や供託金を付け足して、立候補への道を険しくすることや、選挙権に今以上の制限を設けることは絶対にするべきではないと考えます。誰もが様々なことをやれる立て付けは重要です。
衆愚政治にも寡頭政治にももちろん王権にも独裁制にもない良さがこの間接民主主義という仕組みにはあります。
逆に言えば悪いところもあって。
その悪さがあまり出ないように、間接性民主主義の良さが生きるように、暗黙の了解を取り合って、建前を破らずにいることで、僕たちが苦労して見てきた民主主義という美しい幻想が、ある種の人々の選挙ハックをきっかけに死に始めています。
アメリカの連邦議会襲撃を嚆矢として、民主主義の長い死が始まり、この都知事選は日本で民主主義が死ぬ、その始まりになるのかもしれません。
それでいいのか悪いのか。僕にはわかりません。
民主主義によって、それがない社会よりも良い社会にする、という民主主義の機能が低下し、停止する。
この民主主義の死を超越して、さらに住みよい社会が待っている可能性だって全然あります。あります。ありますよ。
が、ただ一つ言えることは、僕にとって選挙は前より面白くなくなっている、ということです。好き者としてはそれが残念でたまらない。
④
講談師にはメンタルが弱くてもなれます。
僕も現実メンタルは弱いです。
大変に弱いですが講談師になりました。
前座修業もやりました。
ただ、メンタルが弱かったので当たり前のようにメンタルが壊れはしました。
妻に詳しいことを教えてくれると思いますが、妻が「頼むから病院に行ってくれ」と懇願しなければ今どうなっていたかわかりません。
暫く休んでなんとか復帰をして、今は活動をしていますが、いまだにその後遺症をそこここで感じます。
一生改善されそうもない精神的悪徳悪癖は身についてしまったかもしれないです。
メンタルが弱い人がメンタルを壊さない修行をするには、厳しくない師匠のところに行くしかないとは思います。
が、厳しくない師匠の下で修業をしても何ら身につかず、講談師として生計を立てることができず、メンタルが壊れることが予想されます。
メンタルが弱くても講談師にはなれますが、メンタルが弱いとメンタルが壊れる。というのが結論です。請われて狂うか自死するか、それでも生きていくことになるかはメンタルの弱いあなた次第、ということでしょう。
まあ、どの職業でも同じことなのかもしれませんが。
⑤
主に関西では年季明け、関東では二つ目昇進、と呼称する芸歴の段階があります。
関東は前座→二つ目→真打と昇進していくのですが、関西では前座→年季明けの二段階しかありません。どちらも2~5年くらいで第二段階に行くことが一般的です。
前座中は師匠にすべてのスケジュールを渡して自分で仕事を取ることも基本的にはできないです。
二つ目、年季明けになるとそれが可能になります。ですからまあ、意味合いとしてはごくごく近い、ということが言えるでしょう。
⑥
なれます。
講談の特性上、地の文、ナレーションパートが大変に多く、そこは関西弁でなくても成立をする場合が多いです。
さらに武士が登場する話ですと、武士同士が流ちょうな関西弁同士で話をする、ということもあまりないものですから、落語のように江戸大阪話者である必要もないように思います。
落語は演じるものですが、講談は読む、語るものです。
ですから建て付け的にはその話者のイントネーション方言で物語を面白く伝えていけばよいのです。
が、それと同時に伝統芸能でもあり、ある種音楽的な魅力もある芸ですから、師匠と仰ぐ人のイントネーションを真似し、受け継ぐことも重要になってきます。
そういう時に出身や今迄使ってきたイントネーションの違いというのは障害になる可能性が十分に考えられます。
まあ、しかし現状の上方講談の惨状では、関東出身ならば素直に関東の講談師に入門するのがいいのかもしれませんね。
その方が先輩たちにかわいがってもらったり、落語家と繋がれたり、所謂講談師っぽく活動ができますから。
我々上方講談師の若手勢は殆どが無視されてバカにされておりますからな。
関西出身で東京で活躍されている講談師の方も結構多いはずです。
まあでも関西の講談師に惚れちゃって弟子入りしたいってなったらそれはもう仕方ないし、全然関東出身でも大丈夫ってことです。
⑦
どんな奴でも構いません。
師匠とも僕とも違う考えを持った人がいいですが、それは当然そうなるはずですからね。
あー。でも後輩の講談師に「落語の世界の大師匠のお連れ合い」という属性の方がおられて、その方はどういう風に接したらいいかいまだにわからないですね。
後輩として遇していいのか、大師匠のお連れ合いとして遇したらいいのか。
ご当人も後輩然とされる時も、大師匠のお連れ合い然とされる時もあって。
今は殆ど交流がないのですが、交流があったころは大変な動揺の日々でありました。
それにしてもなかなか弟弟子ができませんねえ。
⑧
集まっているんでしょうか。この前講談会の会場でお声がけいただいて一人来ていただけることになったんですが、人数管理を別の人に頼んでしまっているので、僕が把握できていないですね。集まれギャルズ。人数多い分には困りませんからねえ!寂しくなくって僕はうれしい。
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以上が今月の質問でした。
送っていただいてありがとうございました。
質問によって書ける文章、ってのがありますから、どうぞ来月もよろしくお願いいたしますね。
※毎週木曜日更新の一週間日記は明日6月21日金曜日に更新いたします。