図書館の資料にみる多摩美の歴史
昨年11 月に多摩美術大学八王子キャンパスのアートテークにて「八王子キャンパス展 坂に建てる~八王子キャンパスの半世紀~」(主催:多摩美術大学)が開催されました。50 年以上にわたって数多くの学生が制作や研究に明け暮れたアトリエや教室などの建物に焦点をあて、時代や教育方針を反映しながら発展し、今の姿になった過程を知ることのできる貴重な展覧会で、多摩美で働く私たちにとっても興味深いものでした。
それを機に図書館でも、在学生の皆さんに「自分も多摩美の歴史の登場人物の一人なんだ」と実感していただきたいと、多摩美の歴史を感じられる資料を集め『図書館の資料にみる多摩美の歴史』というテーマで館内展示を企画しました。この記事は、在学生に限らず、多摩美をあまり知らない方にも多摩美のことをもっと知ってもらいたいと、展示内容をもとに再編集したものです。
図書館の資料に見る多摩美の歴史
写真の手前に写るのは前述の『八王子キャンパス展』のカタログ、そしてモニターに映っているのは数十年前に制作された大学の学科や施設を紹介するビデオです。キャンパスの姿は今と似ているようで、ところどころ異なっています。また、当時の学生さんたちの制作風景や現役を退かれた先生の映像なども見ることができました。当時はコンピューターがデザインの分野に取り入れられつつあった時代でしたが、この頃から積極的に活用を始めていた様子なども見て取れました。
多摩美と武蔵美はルーツが同じ
多摩美術大学と武蔵野美術大学(以下、武蔵美)が元は同じ学校だったことはご存知ですか?歴史的には「帝国美術学校が上野毛へ移転し多摩帝国美術学校(多摩美の前身)となった」とも「帝国美術学校から多摩美が独立した」とも言われます。歴史的な厳密さは一旦おいておきますが、ライバル同士と言われる二人は実は兄弟だったのです。
写真の手前の中央に写る『武蔵野美術大学大学史資料集 第三集』には「多摩帝国美術学校資料」という項目があります。武蔵美の大学史の資料に多摩美が出てくるなんて不思議な感じですが、こんなところからもその事実が読み取れます。
当時の『日本美術年鑑』(写真奥左)の教育施設一覧の項目には、新設された「多摩帝国美術学校」と「帝国美術学校」が並んで表記されているのが確認できます。また、多摩美の大学史資料としては、50 年史(手前左)と80年史(年表・奥右)がこれまで制作されています。
初代校長・杉浦非水
多摩美の歴史を振り返ると美術・デザインの分野の巨人の名前を数多く目にすることになりますが、大学の歴史を語る上で絶対に欠かせないのが初代校長・杉浦非水です。杉浦非水(1876-1965)は、日本の近代の広告・グラフィックデザインの礎を築いた一人で、今で言えばトップクリエイターといったところでしょうか。写真中央に写る展覧会カタログ『杉浦非水展 都市生活のデザイナー』の表紙の地下鉄のポスターはデザイン史の本などでは必ずといっていいほど紹介される名作です。
当時デザインは「図案」と呼ばれていましたが、杉浦非水は流行の発信地だった国内初のデパートメント・ストア、三越呉服店の図案部に籍を置き、広報誌の表紙デザイン等を担当し、時代を作る存在として「三越の非水」「非水の三越」などと称されるほどでした。
杉浦非水は東京美術学校(現在の東京芸術大学)で日本画を学んでおり、写生を常に創作の基盤としていました。その観察力や描写力がいかんなく発揮されたのがこの『非水百花譜』です。百種の植物について、杉浦非水が原画を描き、それを当時の一流の職人が多色摺木版画として仕上げました。
それぞれの植物については解説もあり、絵を愉しむとともに植物図鑑の役割も果たすような面白い構成となっています。なお、当時は五種ずつ、全二十集として刊行され、製本はされていませんでした。当館で所蔵する資料は、折本の形式となっておりますが、前の所有者が保存のために仕立てたものと思われます。
八王子キャンパスへの移転
1960 年代末は学生運動がピークの時代でしたが、八王子キャンパスが完成し上野毛からの全学移転に向けて動き出した大学と、それに強く反対する学生との間で対立が生じ、大きな混乱があったようです。
写真の奥に写る資料の『闘争記 一』は、1969 年に多摩美術大学全学闘争委員会(全闘委)が発行した資料です。当時の学生運動では、多摩美だけでなく全国でキャンパスの封鎖や破壊など今では考えられない事態が起こりましたが、この資料は、学生側の視点から大学との「闘争」を記録した貴重な資料です。開いているページは、この本の最初の項目でタイトルは「八王子新設問題と資料」。ここからも読み取れるように八王子への移転は非常に大きな問題で、学生から移転に強く反対する声が上がっていたことが伺えます。
また、その2年後の1971年の新聞には、校舎(現在のリベラルアーツセンター)の写真とともに、キャンパスが完成したのに学生が来ず近隣では「ユウレイ校舎」と呼ばれていたことや、全学移転に異を唱える学生側とようやく折り合いがつけられ、いよいよ学生たちを迎えると伝える記事が掲載されたこともありました(写真手前はその縮刷版)。
多摩美のシンボルマーク
下の写真のモニターに表示されているのは、多摩美のオープンキャンパスなどで使われているおなじみのヴィジュアルデザインです。これはグラフィックデザイン学科の大貫卓也教授によるものですが、それとは別に大学のシンボルマーク(校章)があります。最初は初代校長・杉浦非水が作成、そして1995 年に五十嵐威暢・元学長が新しくデザインし今に至ります。
1995 年に校章が新しくなった当時、大学の広報誌『たまびニュース』では「美」の文字がいかにして、このデザインになったのか、また、そのデザインにどんな思いがこめられているのかを分かりやすく伝えてくれていました(写真手前)。
何気なく目にしている多摩美のロゴマークのルーツを知ることができるとともに、杉浦非水による最初の校章から、現在のシンボルマーク、また、大貫教授によるヴィジュアルデザインに至るまで「美」と常に向き合い、「美」とともに歩み続ける美術大学としての姿を感じることができるように思います。
自由と意力① 自由
多摩美の教育理念を表すキーワードとして「自由と意力(Freedom and Will)」という言葉があります。多摩美の在学生や卒業生の皆さんだったら一度は聞く言葉であり、また、その言葉自体は知らなくても、多摩美と言えば自由なイメージを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
「自由」はまさに多摩美の伝統です。1999 年の芸術祭のパンフレット(写真中央)は、なんと新聞のような体裁をしていました。今も多摩美の芸術祭で使われている「祭」と「タマビ」をあしらったデザインも入っています。中を開くと当時の展示やイベントの紹介の他、卒業生のしりあがり寿氏のインタビュー記事も掲載されていて、今と変わらない芸術祭の雰囲気が伝わってきます。
そしてもう一つは学生会による新入生向けの資料(写真右側)。こちらは七五三の千歳あめをモチーフにしたデザイン。芸術祭や部活動をはじめ多摩美での生活を紹介するパンフレットで、中には学内で使われる言葉を集めた辞典のページもあり、新入生たちはきっとこれを見て胸を膨らませたことでしょう。また、入学式を終えた新入生がこれを手にキャンパス内のあちこちにいる様子を思い浮かべるとほほえましい気持ちになります。
いずれも大学のオフィシャルの資料ではなく、偶然図書館に残されていた資料です。でも、そうした資料ではないからこそ、学生たちの自由なアイデアが盛り込まれており、多摩美の自由な雰囲気がダイレクトに伝わってくる資料として紹介させていただきました。
自由と意力② 意力
「意力(いりょく)」とは聞きなれないことばかもしれませんが、文字通り《意志の力》です。英語では “Will” と訳されていますので意志と言い換えることもできたのかもしれませんが、格調高い言葉です。
この「意力」は初代校長・杉浦非水が書いたある一節が元になっています。その言葉があるのは、『デセグノ』の創刊号(写真手前中央)。この『デセグノ』は多摩帝国美術学校図案科会の刊行による機関誌で、1936 年の創刊から10 号まで発行されました。多摩美の歴史だけでなく、日本のデザイン史を知る上でも、とても貴重な資料です。
その記念すべき創刊号の巻頭記事が今ひらいているページ。タイトルは『図案生活三十年の回顧』。杉浦非水が自らの画業を振り返る一文なのですが、その末節にこう書かれています。
・・・と、多摩美の後進に対する期待をこめ、自分の「意力」を受け継いでもらいたいと書かれています。自分の思想や技術ではなく、意志の「力」をこそ受け継いでほしいというところに、「自由」とも共通する、受け継ぐ側の意志を尊重した姿が垣間見えます。
おわりに
さて、ここまで多摩美術大学の歴史を感じられる資料をいくつかご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。多摩美術大学のホームページの「沿革」(https://tamabi.ac.jp/prof/history/)には、大学の歴史が分かる年表や先述のシンボルマークについての解説などもあります。今回とりあげることができなかったこともたくさんありますので、ぜひご自身で調べてみてください!