『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んで、本を読めない理由を考えてみた
「疲れてスマホばかり見てしまうあなたへ」というコピーに惹かれ、最近話題の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆, 2024)を読んだ。
家に帰る途中の電車で、カバンの中に本は入っているのに手はなんとなくスマホに伸びてしまって、Twitterのタイムラインと友達のストーリーを往復しているうちに最寄り駅に着く(そしてそれを後ろめたく思う)という経験は幾度となくある。積読ばかりがたまっていって、読書メーターの積読本と読みたい本の合計は160冊を超える。興味のある分野の本ばかりなのに、読みたいという気持ちはあるのに、実際に読めるのは月に2冊がいいところ。大学生という、労働者に比べれば随分とヒマなご身分なのになんでこんなに読めない/読まないんだろう、と長らく思っていた。
実のところ、本書は私にとってその答えをくれる本というわけではなかった。しかし日本近代の労働と読書、教養の歴史を紐解いた本として非常に興味深かった。
特に面白かったのは第八章「仕事がアイデンティティになる社会」。2000年代生まれである私にとって、仕事での自己実現=好きなことを仕事にすることが理想、というのは至極当然の価値観だった。小学校の将来の夢の作文では「本が好きだから司書さんになりたいです」と書いた。「安定しているから公務員になりたいです」と書いたクラスメイトは「現実的だね~!でももっと『夢』を見てもいいんだよ!」と言われていた。本書はその夢追い主義が、規制のない環境での自己決定と自己責任を是とする新自由主義の普及を背景として、90年代後半から2000年代にかけて浸透していったことを指摘する。逆にいえばそれまでは「やりたいこと」を軸とした進路選択は決して一般的ではなかった可能性がある、ということだ。目から鱗だった。
さらに2010年代を描く第九章では「シリアスレジャー」というワードが提示される。これはアマチュアのオーケストラや推し活ガチ勢など「休息ではなく生きがいとして行われる、お金にならない趣味」を指す言葉である。本書ではこの概念を本題である読書=自分と離れた文脈に触れることの議論へのとっかかりとして置いているが、私はシリアスレジャーを上述の仕事を通じた自己実現とは異なる自己実現の方向性を提示するものとして読んだ。
(いろいろと批判はあるらしいけど)マズローの五段階欲求説の一番上に来ている自己実現の欲求は人にとってそれなりに自然なものなのだと思う。 「やりたいことをする」ことは相変わらず称揚されながらも、仕事を通じた自己実現とは異なる方向性が提示されつつある現在、人はどうやって自己実現を目指すのか、私はどうやってキャリアを考えるのか、本書で引かれている本たちを読んでもっと考えてみたくなった。
そして肝心の「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の答えであるが、本書では読書を「自分から遠く離れた文脈に触れる」営為と位置づけ、働いていると仕事以外の文脈を取り入れる余裕がなくなってしまうから本が読めなくなるのだと結論付けている。
本から得られる知識には読む人が知りたいことそのもの=情報以外に、予期しなかった知識=ノイズが含まれている。ほしいのは情報であってノイズではない。文芸書や人文書に至っては、社会や感情といった自分にはコントロールできないもの、すなわち現代の市場適合と自己管理を求められる労働においてのノイズを語るものであるからなおさら余計だ。
つまり、本が読めなくなるのは、現代社会で労働をしながら生き抜くにおいて「ノイズを排除する」=仕事の文脈へのコミットメントが重要であるからで、筆者は本が読める社会であるために「半身で働く」、つまり全身全霊で働かないことを提言している。
私がこの本が自分が本を読めないことの解決策にはならなかったと述べたのは、私が何かの文脈にコミットメントしていて新しい文脈を取り入れる余裕がなくて本が読めないわけでは、多分ないからだ。筆者は仕事を辞めたら本を読めるようになったそうだけど、私が大学を辞めてニートになったところで今より本が読めるようになるとは思えない(というか月2冊は多分世間的には読んでいるほうなのだろう)。読みたい本はたくさんあって、本屋も図書館も行動圏内にたくさんあって、時間だってないわけではない。
じゃあなんで読めないのだろう?
一つの理由は、本に含まれている情報の(しかも私が読みたいと思っているような新書とか学術書とかの)「わかりにくさ」にあると思う。ここでいう「わかりにくい」は説明がへたくそであるという意味ではなく、小説などがごくごくと飲み込めるように読めるのに対して、一旦既存の知識や文脈と絡めて咀嚼する必要があるという意味である。現に本書のような比較的読みやすい文体で書かれた本はさくさくと読み進められたのに、9月頭に読み始めたはずで、しかも専門分野にも関わる将基面貴巳『愛国の起源』はまだ2/3くらいしか読めていない。いざ読み始めたら読めるのだけれど、なんとなく開くハードルが高いのだ。それに比べてTwitterさんときたら流れてくる情報のほとんどが頭でいったん整理する手間を要求しない「わかりやすい」情報だしすっ飛ばしてもなんともないしでよっこいしょ感が極限まで低い。
…ここまで書いていて気付いたのだけど、じゃあすんなり読める文芸を常に携帯しておけばよいのでは…!?森博嗣5冊くらい積読してるし、スピンの最新号も買っただけで読めてないし、なんならその場で電子書籍買ってもいいわけだし。少なくともTwitterをスクロールするよりははるかに有意義(当社比)だ。え、そうしよ。それでとりあえず本は読める。
ということで、2024年のヒット本の感想から始まり自分が本を読めない理由について考えて勝手に解決策を見出してきました。私は圧倒的に視覚優位かつ言語優位の人間なので、考えることは書くことに直結していて、こういう風に書いているうちに何かが思いつくことはよくあります。
とにもかくにも今までより本が読めるようになりそうです。読みます。
最後に、読んだ後本書に関するいくつかの書評を読んでみたところとても面白かったので、読んだ知り合いがいたらぜひ感想とか聞かせてください。
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