空想お散歩紀行 次のあなたへ
「・・・ああ、こちらは任せてくれ。大丈夫だ。リミットまでには戻る」
彼はスマホの通話を切ると、ポケットにしまう。
近くにあった自販機で飲み物を2本買うと、車に戻った。
運転席に座ると、買ったペットボトルの一本を黙って助手席に向かって差し出した。
「話はしておいた。とりあえずは大丈夫だ。まあ、戻ることには変わらないがな」
「・・・・・」
助手席から返事はない。そこに座っている女性はただ静かにうつむいたままだ。
太陽はまだ真上にある時間帯なのに、車内はまるで夕闇が広がっているかのごとく静かに暗く沈んでいる。
沈黙に耐えられなかったのか、彼の方から話を切り出した。
「不安なのは分かる。だけどな、こればっかりはどうしようもない。来るべき時が来ただけだ。今年一年、俺もまあ何とかなったんだ。あんたもきっと何とかなるさ」
励ましになっているかどうか、彼自身にも分からなかった。だけど今はただ言葉を掛けることしかできることはなかった。
彼女もずっと黙っていることに気まずさを感じたのか、その重い口を開いた。
「分かっています。これは避けては通れないこと、大切な仕事だって。私がその役目を申し付けられたのも光栄なことだと思っています。でもやっぱり同時に怖いんです。私なんかに務まるのかと」
彼女はこれから自分に課せられる仕事に不安を感じていたのだった。その頭の上から伸びている二つの耳が不安そうに彼の方へと向いていた。
「私なんかに、兎の干支役ができるのでしょうか?」
彼女の問いかけに、運転席の彼は少しの間黙っていた。黄色と黒が混ざり合った体毛と鋭い目つき、猫科特有のヒゲはピクリとも動いていなかった。
そして静かに言葉を紡ぎ出した。
「俺も今年一年、虎の干支役をやってきた。もうあと5日でその役目も終わる。正直、俺も最初は不安だった。初めてのことだったしな。先代の虎は3期連続で干支役をやったベテランだったからなおさらだ」
「・・・・・・」
「やってみて分かったこともいくつもある。ただそれは俺が気付いたことで、ここでそれを言ってもあんたへのアドバイスになるかどうか分からん」
「そうですよね・・・」
「ただ、不安なままでいいと俺は思う。不安を解消してから歩き出すなんて、いつになるか分からん。とにかく始まってしまえば、何とかなるもんだ。俺も実は去年の今頃、牛のアニキに同じ悩みを打ち明けたよ」
「虎さんもですか・・・そうなんですね。何だか私だけじゃなかったんだって思えたら少し楽になりました」
「そうか、わざわざ探しに来た甲斐があったってもんだ」
彼女の表情にわずかだが、安堵の光が戻ったことを虎は嬉しく思った。それは一年前の自分と同じだったからだ。
「ありがとうございました。今すぐ戻りたいと思います。皆にも迷惑掛けちゃったし」
前向きな気持ちになった彼女に意外にも虎は掌を向けて、それを抑えた。
「何言ってんだ。俺はさっき電話でリミットまでには戻るって言ったんだ。まだ5日もある。せっかくだ、こいつで今の内にいろんな所を回ってみようじゃないか。来年は忙しくなるんだしな」
虎の彼はそう言うと、車のエンジンを掛ける。
虎の咆哮にも負けず劣らずの音が車内に響き渡った。
「行くぞ?」
「はい!」
虎と兎のほんの少しの旅が今始まった。
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