空想お散歩紀行 付けたし屋
たくさんの光が何回も何回も明滅を繰り返す。
カメラのフラッシュの嵐を浴びながら、それでもその人は笑顔を崩さない。
自分の顔の横にトロフィーを掲げながら、まさに今が人生の絶頂といった感じで一歩も動くことなくその場に立ち、嵐を一身に受けていた。
映画の祭典。毎年行われる、その年で一番の作品を作った監督に贈られる賞。数多の映画人たちがその賞を目指して自らの世界を表現する。
その賞を取ることは、映画界の歴史に名を残すのと同義だからだ。
私は記者の一人として、今日この会場に来ている。
そしてここにいる全ての人間の中で、私と、いまだ止まないフラッシュの中心にいるあの監督だけは知っている。
もし喜びのマックスを100とするならば、今の喜びは90といったところだろうと。
私は先日、ある青年に偶然出会った。
彼は自分のことを「付けたし屋」だと自称していた。
彼はその名の通り、ある物に付け足しをすることを仕事としていた。
それは、物語であった。
あらゆる物語のラストに、彼が更なる追加を加える。
それがものの見事に作品を一段も二段も上のステージに引き上げるのだ。
ラブストーリーはより感動的に、ホラーはより恐怖に、その特徴を際立たせる。
映画、小説、アニメ等々、ジャンルを問うことなく、彼が手を加えた作品はいくつも存在した。
凡作は名作に、名作はより名作になる。
そして今日、賞を取った作品もまた、彼がラストを付け加えた物だった。
受賞した監督の作品は、もし彼が付けたしをしなかったとしても素晴らしい作品だった。だが彼が付けたしをしたことで間違いなく作品の質はその光を増した。
監督にとっては、元々の自分の作品を何一つ変えられたわけではない。そのままの状態のラストに追加を入れられただけなのだ。
だからこそ、その胸中は複雑だろう。
彼に付けたしをされたことで、なぜ自分はそのラストを思いつかなかったのかと、自信を失ってしまう創作者も少なくないと聞く。
彼に出会った後、過去に様々なコンクール等で受賞した作品の多くに、付けたし屋が関わっていることを私は知った。
しかし彼は決して表舞台には出てこない。
彼は自覚していた。自分はゼロから物語を作ることはできない。自分にできることは他人の作品にプラスアルファを乗せることだけだと。
だから彼は、物語を最初から作れる人に常に尊敬の念を抱いていた。
そして、その物語を最初から作れる人物は、彼の才能に畏怖と嫉妬が混ざったような感情を抱いている。
創作の世界とは何とも複雑だと、記者生活30年を越えて、私は改めて思わされた。
相も変わらずフラッシュの嵐と、記者の質問の声を笑顔で受けている監督。その笑顔に10%程度の陰があることに、私は少しだけ同情をしていた。
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