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糸井さんと羽生さん⑪ ~ふつうと芸術~

ほぼ日さんでの糸井重里さんと羽生結弦選手の対談、Day11。

タイトルは「ふつうが憧れ」。

「ふ、ふつうが憧れって、一体どういうこと?」

タイトルをみた時、僕はかなり戸惑った。

糸井重里さん。

東京をTOKIOと表記し、「おいしい」の意味をグワンと拡大し、デヴィッドボウイとジョンレノンの共作曲の日本語の歌詞を書き(宮沢りえさんが歌い)、世界中でMOTHERやほぼ日手帳の愛好者がいる。糸井さんに見出された才能、面白さを引き出してもらったジャンルは数限りない(以下略)

羽生結弦選手。
オリンピックに出るだけでもそうとうな偉業なのに、金メダル2回、プロでは独自の表現を追求し続け、モハメド・アリやマイケル・ジョーダンらと並んで歴史的アスリートとしてランクインし、ものすごい数の希望と健康を配っている。その一挙手一投足が注目されない日はない(以下略)


(以下略)の絶対量がとにかく凄まじくて、どう考えても「ふつうの人」じゃない。


でも、ふつうじゃない人たちが「ふつう」について語り合っている。言葉を選ばずに書かせてもらうならば、このテーマの「ネジレ具合」に、僕の心には、さざ波が立っていた。


対談の中で、羽生選手はこう言い切る。

羽生

はい、ふつうが憧れです。


「ふつうが憧れ」

こんなセリフ、今まで聞いたことがない。

僕なんかは、「ふつうで終わりたくない」と思っている。
気づけば「ふつう」を遠ざけるところがある。

たとえば、いまこの文章を書いているのも、「この対談の感想を深く、じっくり、何度でも味わい、そして自らの血肉としたい」という気持ちと、それを「ふつうではない形で記録して発表したい」という気持ち、その両方がたしかにある。

「ふつうで終わりたくない」という想いがどこかにあり、「ふつう、からどれだけ飛躍できるか?」が行動の方角になっている、ともいえる。


だが・・・・、羽生選手は、ふつうが憧れ。

ご本人は「ヘン」と言い表しているけれど、「ふつう」からもっとも遠い距離にいる「ヘン」、つまり、羽生選手は「ヘン」のほうに軸足がある。思いっきり意識が突き抜けちゃっている。

「わたしはふつう」の場所にたって、ふつうからの脱却を目指すのではなく、「わたしはヘン」の場所からふつうを眺めている。


この羽生選手の意識のあり方が、ようやく僕の脳でも理解できたかけたとき、やっと気がついたのだ。「ふつうが憧れ」は、同時に「ヘンの肯定」であることに。

ヘンを肯定する、つまり平均や標準から大きく離れてしまった自分自身をしっかりと飲みこむ。すると「へん」も「ふつう」も大きく視野に入ってくる。「ふつう」を否定するのではなく、ふつうに対して敬意をもてる。

これはもう僕個人にとって「発見に近い衝撃」だった。

羽生結弦選手がジャンル、属性、性別、年齢、民族、国籍、そんなものを軽々と超越して圧倒的に支持されるのも、「ふつうという自意識をもった人々」に優しくリーチしているからなんじゃないか。「ふつう」から「ヘン」までまるごと両手で抱え込む大きさがあるからじゃないか。ーーーーそんな思考も走り出した。


糸井重里さんも、「ふつう」を大切にしてきた表現者だと思う。

日本のラグビーを応援するときに「ニワカ」という言葉を発明し、以降、「ニワカ」という概念を世の中に定着させてしまった。

(僕もホンの少しだけかじったことがあるけれど)ラグビーは「やる人」にはたまらない魅力ある競技だ。ルールもやりながら覚えていくようなところがある。それだけに「観る人」にはいまいち魅力が伝わりづらかった。

コンタクトスポーツは「やる」には敷居が高い。だから、大会の会場はほとんど実践者、経験者、関係者、みたいな競技は多い。

そんな現状の中、「ラグビーに関心があるか無いか、微妙な層」つまり関係者の外の人たちが感じるであろう、いわゆる「ふつうの感覚」をもった人々。これをニワカという言葉でとらえ、「ニワカがビビらずにラグビー観戦を楽しめる」空気感をつくりあげた。

これを契機に「ジャンルとしてニワカを大切にする」重要性が浸透していった気がする。(マニア以外お断り、は衰退への一方通行だ。)


他にも糸井さんが1998年から「ほぼ日」でやってきている「毎日更新」の姿勢は、現在のYouTuberやインフルエンサーたちの「ふつう」になってきている。(この対談も、その上に)


羽生結弦選手、そして糸井重里さん。

「ふつうを大切にしながら、ふつうではない規模感でやってのける」

Day11は、そんなおふたりの全体像が見えてきた。

そして話題は、競技の感動、芸術の感動に進んでいく。


羽生

感動できるものはつくりたい。
けど、わかりやすい「結果」としての感動は
そこに入れることができない。
そういう意味では、「結果」に感動するのって
ふつうなんでしょうね。

糸井

つまり、また「ふつう」に憧れるけど、
「ふつう」をやることはできない。


羽生選手の表現者としての葛藤が言葉として表れている。

競技と芸術。

同じ「感動」でも、前提が全く異なることに気づかされる。

結果というわかりやすさを手にした羽生選手が、わかりにくさの海に飛び込んでいる。「ふつうとの距離感」中で模索されてきたことが、伝わる。

Day11で「ふつう」についてきちんと考える、貴重な経験をさせてもらった気がする。

・・・・と、ここまで何度もこのテーマについて思考してきて、
ある言葉が想い出された。

羽生結弦選手も、糸井重里さんも「新しい基礎」をつくってきている。


新しい基礎は、未来のふつうになる。


ふつう、に背を向けてはいけない。
ふつうを大切にしながら、それゆえにふつうとの距離感に苦悩しながら、
それでも行動を粛々と積み重ねる。


それは決して簡単じゃないだろう。
でも、それをやってみせてくれる人たちがいる。

光をみせてくれてありがとう、の気持ちに包まれたまま、
「ふつうが憧れ」に憧れたまま、Day11のレビューを終えてみたい。


追伸:前回からDay11まで、実はこの文章を何度も何度も書き直しました。「単なる感想文にはしたくない」という想いがあったため、かなりの時間が空きました。「僕は僕として、僕自身にOKを出せる結果を出したい」と思っていて。みなさんのおかげで、それを実現できたので。改めてその視点からDay11について完成したレビューがこちらです。羽生選手と糸井重里さんの対談は心に届き、長く、永く、行動を惹起する。その小さな証明になったら嬉しいです。二重作拓也

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