空が青い理由

朝方まで眠れずに、そのまま日の出を待って洗濯を回した。
洗濯機のスイッチを入れると、不思議と眠気が来て、眠ってしまった。
昼前に目が覚めて、慌てて洗濯物を干す。
それからまた眠った。
昼下がりにまた起きて、昼ごはんに友人とパン屋に行った。
食後、友人が駅前の広場で中国ゴマをする。
砂時計みたいな形をして、ドラムスティックにヒモを通したようなやつで操作する、アレだ。
私はしなかった。
見ている方が面白かったし、正直言って動きが滑稽で恥ずかしい。

駅前のロータリーに白バイが一台。
ずっと辺りを見回している。
まったくいやらしい商売だ。
警察は好かない。
ああいう犬みたいな連中には愛情を向けない、と決めている。
そういえば、今日は運動をしたいことも決めていた。
ヒモが棒から何度も取れるので、友人は中国ゴマをやめた。
散歩することにした。
今日は素晴らしく爽やかな天気になったが、連日の雨で桜はもう観れるものではない。

私たちは平生、街角の桜でも土手の桜でも、春になれば楽しみにするが、近代以降の日本の桜は、ほとんどソメイヨシノばかりになって、そのソメイヨシノというのは、ボロ桜だそうだ。
専門家に言わせれば、桜の風上にも置けないクズらしい。
前に小林秀雄で、そういう話を読んだ。
私が生まれた頃には、もうすでに桜はソメイヨシノばかりだったから、それが実は落ちこぼれだった、というのは、聞いて切なかった。
なにより辛いのは、そう言われてみれば、やはりどれも大したことない木に見えることだ。
これが日本中に好んで植えられたのは経済の上昇気流と比例していたと思われる。
テレビで全国の桜の見頃が伝えられるのは、画一化されたソメイヨシノという規格に拠るところが大きいらしい。
彼らが一斉同時に開花するのは、すべての個体が単一のクローンだからだそうだ。
私らが虚しく描く桜の木の個性というものは、遺伝子分析が否定している。
私は、桜を以前のように楽しめなくなった。
代わりに、そこに「きれい」とか「美しい」以外のいろいろを感じるようになった。
「粗悪品」、「大量生産」、「フランチャイズチェーン」、「pH値調整」、「インスタント」、「旅行代理店」、「カオナシ」、「就活生」。
それはそれで、また別種の愛らしさがある。
これらは春になれば街のいたるところに咲いて、2日も大雨が続けば、それに耐える美など、もとからない。

人間も今、そういう悩みを抱えている。
桜を見る余裕もない。
散歩の途中、友人が、お世話になっている居酒屋を見舞いに行こうと言った。
私もお世話になっているので店の方に向かった。
夫婦で営んでいる、素敵な居酒屋だ。
店の前まで来ると、おかみさんが庭を掃いていた。
挨拶も早々に、店にトラックが来て、それだけでお別れした。
おかみさんは、あからさまに暗かった。
今日は、「飲み食いする場所がなくて困っている」という常連のためだけに開けるそうだ。
心配だが、手伝えることはない。
宣伝するのもおかしいし、ボランティアで働こうにも、お客がないのだから働きようがない。

私と友人はとにかく歩いた。
山手の寺を周りながら、いろいろ散策した。
たまに見かける人は、不思議と健康的に見えた。
裏道をずっと行ったところ、道路にしゃがんで花壇に水をやっている小児科の看護師の女性。
彼女は、私たち二人に座ったまま「こんにちは」と、言った。
なんとも言えない雰囲気で、印象的だった。
誘うわけでも、寂しくないわけでもない、自分を可哀想に見ないでくれ、でも実際可哀想なのだ、というような。

そこから私たちはどんどん山の方へ登っていって、ついに山の上の開けた高台に出ると、道の脇は老人ホームやデイケアサービスがひしめき合っていた。
私たちの生活圏を少しズレると、こういう管理された限界集落がある。
もう少し足を伸ばして、さらに人里を離れる。
この街の有名なお寺の名前を冠した展望台が、東の端の山のてっぺんにあるのだ。
久しぶりの運動が気持ちよく、山道はつらくなかった。

やっと着いた展望台からの眺めはすごかった。
私は6年ここに住んでいて、こっち側(街の東側)の山には登ったことがなかった。
街全部を見下ろせて、海に浮かぶ船は止まって見えた。
駅前の方に自分たちの棲み家を探す。
さっきまであそこで眠っていたとは思えない。
鳥の高さまで来てみると、すべてはやはり地球の表面である。
眼下に広がる街も、遥かの大気に霞む陸地も、全部が青い天球に遠く及ばない。
この薄い青の幕の向こうに暗黒の宇宙が拡がっていると思うと、単純に心が踊る。

しかし、宇宙飛行士の心とは、少し違うかもしれない。
私が、心踊るのは、これほどのスケールを見せつけられても、少しも減らない私の「存在」に対してだった。
天文学的なスケールも、私の認識できる内にあるものに過ぎない。
とすれば、私の認識の外は、どれだけ計り知れないのだろう。
宇宙は重なり合っているかも知れず、私の隣に、実はもう一人私がいるかもしれない。
この空を突き抜けると、やっぱり布団の中の暗がりだったかも知れないのだ。

その青空も、一日の終わりが近づけば、夕焼けに赤く染まる。
どんな青空も必ずだ。
そして、それは光の波長の長短と、人間の眼の構造における現象、で、言い尽くせる事柄ではない。

空は太古から空であって、私たちは束の間にそれを見上げる。

このとき、あらゆる現象が、現象しているのは、束の間に見上げる「私」によってであろうか、「太古からの空」によってであろうか。
クラシカルで味わい深い問題が、ここにある。

果たして誰の眼が、すべてを観察しているのか。

人類は16世紀までは天動説を信じていた。
今ではそれを信じる人は極端に少なくなったが。
いやでも、しかし、天動説と地動説というのは、一体何を言おうとしているのか。
どちらも同じだけ、地に足の着いた解説だ。
でも、一体何が掴み取られたことになるのか。

私が知りたいのは、「なぜ、空は青いのか?」であって、「空が青いのはなぜか?」ではない。
これは、どうしても性質の異なる問いではないだろうか。

青い光の波長が短いから、他より大気に散乱して、結果人間の眼に空が青く見えたとして、それはつまるところ、私たちが「何を青と呼ぶか」に答えたに過ぎないのではないか。

「なぜ、空は青いのか?」は、色彩の問題ではない。

「なぜ、これはこれなのか?」という真理に関する問いだ。