見出し画像

『民主主義の育てかた』読書会 #5

神代(2021)『民主主義の育てかた』の読書会。前回の記事から時間が空いたが第4章・古里貴士「公害教育論—生存権・環境権からのアプローチ」を見ていく。

全体としては今流行りのESD(持続可能な開発のための教育)を捉え直すべく,戦後教育学における「公害と教育」問題を取り上げているが,やはり英語教育を中心として言語教育に関わる人間の集まる読書会というだけあり,言語教育の抱える課題に即して捉えられる部分が特に盛り上がりを見せた。

本記事は,書籍の内容のほとんどをカバーせず,「ゆるり英語教育」として語りたいことを語るものであることは予めご了承いただきたい。どの記事も大体そんなものなのだが,今回は読書会自体が言語教育への批判的意識に基づいた議論が中心になったことと,その読書会から数週間が経ってしまっていることもあり,その傾向がより顕著に表れている。

「英語学習」と「「英語と教育」問題」

本章の序盤では「公害学習」と「「公害と教育」問題」を明確に分けた藤岡(1975)の論考が紹介されている。

「公害学習」という言葉が「主として教授学習活動をともなう教室を場とした教育実践」を指すものであるのに対し,「「公害と教育」問題」は「子どもの身心発達における疎外の基本的要因たる環境破壊の諸相を教育問題としてとらえなおしその解決をもとめる社会的実践の対象」であると説明しています(藤岡, 1975a, pp. 30-31)。 (p. 99)

より単純に言ってしまえば,「公害学習」が教室で公害(と呼ばれるものをはじめとした種々の環境問題)について知識として学ぶことにとどまる一方で,「「公害と教育」問題」は,環境破壊が子どもの発達に及ぼす影響に対して働きかけることまでをも射程圏内としている
読書会に参加する小学校教員によれば,総合的な学習の時間等に行う環境学習では「人間と人間以外の生物の環境的関係の要因」といった内容の学習が主であり,それは「公害学習」の範囲にとどまってしまうと言える。

あまりにも安易に自分たちのフィールドへ持ち込みすぎている気もするが,これは英語教育の現状に対しても非常に示唆的な区別である。

「英語教育」について誰かと語るとき,一方が「英語という言語の習得を目指した教室(内外)での授業実践」(英語学習)の話をし,もう一方が「子どもの発達やこれから生きていく社会に対して,英語という言語が及ぼし得る影響の全体を教育問題としてとらえなおし,学習者の幸福にとっての正の影響を増幅させ,負の影響を減衰させる社会的実践の対象」(「「英語と教育」問題」)の話をしていると,そこでは話が噛み合いようがない。(もう少し意地の悪い言い方をすれば,前者しか念頭に置けない英語教育者とは,後者の話はできない)

そして,教師が「公害」に対して,「公害学習」を行うという態度を取るか,「「公害と教育」問題」を扱うという態度を取るかによって,その教師の授業も大きく変わってくる。本章では,公害を生み出す社会の在り方に対する反発的な運動に主体的に加わり,そのプロセスを通して授業を構築する教師の姿が描かれている。
ESDをはじめとする環境教育を行う教師はここまでの主体的関わりを持って行えているだろうか。少なくとも現状の学校教員の採用形態では環境教育のプロフェッショナルとして採用される者もおらず,市民運動に参加して,その様子を記録して,それを元に授業を構築するというレベルの環境教育を行うことを学校教員に求めるのはかなり酷だろう。

一方で,英語教師は英語教育のプロフェッショナルとして採用されている。それならば学校英語教育を社会全体に行き渡る「「英語と教育」問題」の一側面として捉え,子どもたちの生きる未来にとって,英語という言語や英語学習という営みがどのような影響を持つのかについてより批判的に吟味し,時に運動に参加し,それを教室での実践に落とし込む姿勢を求めて然るべきではないだろうか。

大学時代には「教育と社会」といった名前の授業で,最低限の学校教育と社会の関わりについて学ぶ機会を得ていたと思う。しかし,英語科教育法をはじめとした英語教員になるための専門的科目において,「「英語と教育」問題」はどこまで真剣に扱われているだろうか。

英語教員養成については理論言語学・応用言語学を学ぶ時間も圧倒的に足りないと思うが,中でも「社会言語学」が大学の授業で扱われた記憶はほとんどない。それっぽいものと言えばせいぜいKachruの同心円モデルぐらいだろうか。それとの関連でWorld Englishesなどの諸概念も紹介はされているだろう。ただ言語と社会格差,差別,イデオロギー等の問題を真正面から扱う授業は一切記憶にない。

関連記事


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?