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中学生に語った「英語との付き合い方」

石川県内の某中学校で中学生数十名に対して「英語との付き合い方」というテーマでお話をさせてもらった。
と、振り返りを書くかのようなテンションだが、実際には講座の前に書いた文章を講座終了後に公開している。主に当日話す内容を整理するため。誰かに読まれるという意識が私の思考をかなり整えてくれるので。(ただ、気持ちが盛り上がりすぎて、さすがに中学生には話さないだろうなということも書いてしまった)
今回は1時間限りの関わりだからこそ、私の出来るだけ芯の部分を分かりやすく示したい。そういう意味で、この記事は私の外国語教育に対する今現在の考え方をそれなりに端的に表明する機能も持つだろう。
また、保護者の方が「どんな話だったんだろう?」と思った時に、生徒の持っているプリントから「川村拓也 北陸大学」で検索してこのnoteに辿り着けば、なんとなく概要を知ることができる。参加してくれた生徒さんには、私の名前や大学名で検索してnoteに辿り着けば復習できるよ、と一応伝えるつもり。(伝え忘れました…。)

(生徒さんの反応も事前に想定しながら書いていますが、あまりにも現実が想定から離れすぎていない限りは、実際の様子は特に記さず、私の想定のまま書き残す予定です。)

最初の問い「英語ができる人ってどんな人?」

私の自己紹介を英語でサクッとし終えた後、早速1つの問いを投げてみる。
「英語ができる人ってどんな人?」
近くの人と意見を共有する。

ここで今日のテーマを発表。
・「英語ができる人」への第一歩
・「何のために英語やるの?」を考えるための第一歩

本当に話したいことは2つ目のテーマなのだが、いきなりそこに行くより「英語ができる」の方がキャッチーかなというのと、そもそも「英語ができる」とはどういうことかを捉え直してこそ、英語を学ぶ目的を考え始めることができると考えている。

2つの言語活動

ペアになってもらって2つの簡素な言語活動をしてもらう。今回は参加生徒の学年も英語の学習状況も事前には分かっていないので、特定の英語知識にタスクの成否が大きく左右されないよう配慮したつもり。
活動の内容は私の中で十分整理が済んでいるので、ここでは割愛する。
(もしご関心のある方がいれば、何かしらでご連絡ください)

2つの活動は表面上かなり似ているが、大きな違いがある。1つ目の活動はとにかく自分の持っている情報を沢山言えればOKなのに対して、2つ目の活動ではペアの相手にとって有益と考えられる情報を選びながら伝えることが求められる。
そのことを生徒の皆さんと活動を振り返りながら確認する。
そして、そこでの英語使用についても振り返ると、「1つ目の活動の方が沢山英語を話せた」ということと、「2つ目の活動の方が相手のことを考えた」「2つ目の活動の方が相手の話を聞く気になった」といったことが明らかになる(と踏んでいる)。
「現実のコミュニケーションでより求められるのはどっちの活動の考え方だろう?」と問うと、(どうしても誘導的な感じにはなってしまうが)2つ目の活動のように相手のことを考えて伝えることが大切だということに気づくだろう。
十数分前に、「英語ができる人ってどんな人?」と問われた時には「ペラペラ話せる」「ネイティブの英語を聞き取れる」など個人の中の情報発信・受信スキルに注目した発言が出るのではないかと予想している。
2つの活動とその振り返りを通して「多く話せれば良いわけでもない」「聞き取れるかどうかではなく、相手と話しながら意味を確認していくのが大事」ということを、経験を通して感じてもらえると嬉しい。
「英語ができる人」になりたいと思った時に歩むべき道は、発信・受信できる英語の量的な増加ではないという考え方だ。

「何のために英語やるの?」を考える

ここから「何のために英語やるの?」を考える段階に入る。単純にスピーキング力やリスニング力、あるいはテストのスコアや英検の級が上がれば英語学習としてそれで良いというわけではないのなら、果たして何のために英語を学べばいいのか。「もしかして、この先生は『必ずしも英語なんてできなくてもいいんだよ』と言ってくれるかもしれない」と期待する生徒もいるかもしれない。私もそういうメッセージをあえて伝えることも可能性として考えた。
しかし今回はそうではなく、英語を学ぶこと・使うこと、ひいては言葉を学ぶこと・使うことの目的を「平和」の実現に求める。「究極の目的」ではなく「一丁目一番地の目的」としてだ。

2024年の元日、能登半島地震があった日の夜にJR松本駅に設置されていたホワイトボードが話題になった。

駅員さんが書いた日本語を利用客の方が英語に訳し、さらにそれを他の誰かが中国語そしてまた他の誰かが(おそらく)インドネシア語に訳して、2枚のホワイトボードに4つの言語が共存した。
ここでは各人の身につけてきた言語の知識・技能が他者のために惜しみなく使われている。駅員さんの書いた日本語を理解するのが難しかった人達の中には、他の3つの言語のいずれかで情報を理解出来た人も少なくないだろう。また「自分の慣れ親しんだ言語を話す人がこの空間に他にもいる」「自分達もここで震災の影響を受けた者として存在が認められている」と感じられることの安心感は情報を得られたことによる安心感と同等かそれ以上のものだったのではないだろうか。

一方で、同じく震災に関連して、避難所に入れなかった外国人の存在を報じたニュースを取り上げる。

このニュースのタイトルを読んだ時に「まだそんな差別をしているのか」と絶望的な気持ちになったが、記事を読む限りおそらくそういうことではなさそうだ。外国人も入る権利がちゃんとあった避難所ではあったが、外国人らは「日本人の輪の中に入りづらい」という思いから避難所に入ることを躊躇い、結果的に食料も得られず車中泊を選んだようだ。
「外国人はダメ」などと言ってないのだから入ればいいじゃないか、という自己責任論で片付けてはいけない。なぜ、外国人達は避難所に入ることを断念したのか、彼らとの震災前からのコミュニケーション、そして彼らが避難所の様子を見に顔を覗かせた時のコミュニケーションの在り方にそのヒントがあるように思われる。それは彼らが住人であれ観光客であれだ。
有事で皆が不安に駆られ余裕が無い状況で、避難所の運営や生活において言語面での負担をかけてしまうことが精神的に楽ではないのは確かだろう。しかし、それでもあの命に関わる状況で「そのコミュニティの言葉が分からない」という後ろめたさが、安全を確保したいという思いを上回ってしまったのが現実だ。
被災地の方々の外国人への対応を非難する意図は全くない。むしろ、非難を受ける必要があるとすれば、我々、外国語教育を担う者の方だ。海外に留学する人が何万人増えようが、英検の上位級に何人受からせようが、大学の公用語が英語になろうが、そこはゴールではない(し、適切なプロセスであるかも分からない)。命の危機においても言葉の壁が打ち破られない、そもそも日頃から言葉の壁を心理的な壁として感じすぎてしまう状況が、おそらく日本中にある。その責任はやはりこれまでの外国語教育にあるだろうし、同じことを繰り返す社会にしない責任はこれからの社会を構成する市民を育てる者にある。(これは学校の英語の先生という生徒にとって最も身近な英語教育者だけでなく、日本の学校英語教育に関わるあらゆるステークホルダーを指している)

でも、他の誰かのためだけには頑張れないかも

いつか必要な時に他の誰かのために自分の持っている言葉の力を目一杯使ってほしいというのが私の外国語教育関係者としての思いだが、その一方で、中学生たちにとっては「いつか他の誰かの力になるために」というモチベーションだけで英語を学び続けるのは難しいだろう。かと言って、「テスト・受験のために仕方なく」「やらなきゃ怒られるから」ではやはり「いつか必要な時」に力を発揮できる可能性はやはり低いと考える。
ここからは、すでに自分なりの目標・目的を持って前向きな気持ちで英語に取り組んでいる生徒さんには必要のない話かもしれない。そうではない生徒さんに、英語を学びながら味わえる楽しさやワクワク感の多様さを感じてもらいたい、そしていつか自分なりの楽しさを見つけてもらいたいという思いで、私が北陸大学国際コミュニケーション学部の学生と関わる中で出会った彼(女)らにとっての英語学習の楽しさや冒険的なワクワク感をいくつか紹介する。
その中には「英語を使って仕事をしたい」「海外留学して世界中に友達がほしい」「海外のドラマや映画をそのまま理解したい」そして「英語で歌を歌いたい」などが含まれる。
最後の「英語で歌を歌いたい」に関連して、私の今期の授業の最終プロジェクトで竹内まりやさんの「元気を出して」の歌詞を英語にしてギターで弾き語りするという課題に取り組んだ学生を紹介し、(もちろん学生に許可を取って)彼女の作詞した英語版の「元気を出して」を一部聞いてもらう。

講演内容の選択

能登半島地震というセンシティブな話題を扱うかは悩んだ。しかし、「平和」を究極の目的ではなく一丁目一番地の目的なのだと示すために、石川県に暮らす子どもたちにとってこの震災で「言葉」を巡ってどのようなことが起きていたかを知り、そこから自身の言語学習・言語使用について考えることの意義の大きさを選択した。

この話をすることの背中を押してくれた(と私が勝手に思っている)本がある。
佐藤慎司・神吉宇一・奥野由紀子・三輪聖(2023)『ことばの教育と平和-争い・隔たり・不公正を乗り越えるための理論と実践

この本は一冊通して、言葉の教育を通じて「いかに平和なコミュニティや社会の未来を創造しうるのか」という問題意識を貫いている。
今回の講座を用意するにあたり、特に榎本剛士さんの書かれた第3章「コミュニケーション論から考える「ことばの教育と平和」――日本における英語の教育はいつまで「英語教育」でなければならないのか」を中心に読み返した。

ことばの教育を担う者に向けられた内容を、学び手である中学生に対して、「英語をどう学ぶか」という話として伝えること自体への躊躇いは少しあった。

私は英語教師に伴走する「英語教師教育者」を名乗る以上、本来であれば英語の先生方とこういう話を重ねていかなければならないはずである。

【おわりに】
無事に講座を終えました。英語を使うこと・学ぶことにすごく前向きな生徒さんが多く、私の顔、スライド、メモ用のノートに順番に目をやりながら、頷きながら、時に首を傾げながら、聞いてもらえました。言語活動の際の積極的な姿勢にも、とても元気をもらいました。そういった聞き方・受け取り方ができる生徒さん、そして学校の文化を日頃から育てている先生方に頭が下がります。

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