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artifact architects【自己紹介】

はじめまして。稲吉匠哉(いなよしたくや)と申します。
2023年7月末で勤めていた建築設計事務所を退職し、自身の設計活動を始めました。まだまだ初期段階ですが、自分の理念をまとめ整理するためにnoteへ記録していこうと思います。


1.つくること

建築設計事務所の名前は表題にも挙げた「artifact architects(アーティファクト アーキテクツ)」。
artifactの意味は広く「人がつくるもの」全般を指します。
私は人が何かを「つくる」ことに興味があります。
それは建物のような物理的なものづくりに限らず、人と人との関係や、言葉で論理構築することなどなど、観えないこともつくる内に含まれます。
(自分なりの「つくる」ことの定義は後日投稿する予定です。)
少し自分の「つくる」ことに対する考えをお伝えすると「する」と「つくる」の違いは何か?ということから下記のように「つくる」を認識しています。

する:ひとつひとつの行為のこと。既に言葉として定着→機能している。
つくる:二つ以上の「する」が、過去のどの時間かを問わず積まれ連続している。
また「つくる」には2種類あり、①最初から完成形を理解している②最初は完成形を理解していないが、トライアンドエラーを繰り返すうちに自分だけの言葉を見出す。
①は②があって成立する。

また私は建築をつくるにあたり、抽象と具象を行き来し巡る過程がとても好きです。例えばスケールという概念を用い、1/1000〜1/1を段階的に考えたり、またそれら各スケールを思考する場面に応じ、必要なスケールを抽出し他のスケールとフィードバックし合うことなどです。
以上の話はとても抽象的ですが、このnoteでは抽象から段々と具象へと話を移行していこうと考えています。

具体的にどのような建築をつくるか、をお伝えする前に再考しつくり変えるべきものがあります。それは「生活」と「知覚」です。
まずはそのことについてお伝えします。

2.生活の選択肢をつくる

建築設計を行う上で、理念の出発点は何か?から始めたいと思います。
私はまず現在の資本主義下での生活の選択肢を増やしたいと考えています。

学生の頃から多大な影響を受けたモダニズム・ポストモダニズム建築に多く関わる内に、この二つは共通して「資本という燃料・資本主義というエンジンで駆動するシステム」という考えに向かいました。モダニズムは資本主義の黎明・興隆期と、ポストモダニズムは興隆期とそれぞれリンクしています。ポストモダニズムは抽象的な理念であり、昨今語られること自体ほぼなくなりつつありますが、姿を変え続け現在も継続しているというのが私の持論です。そんな建築をつくる強力な理念であるモダニズム・ポストモダニズムですが、どちらも背景には資本主義が控えています。
資本主義の生活への恩恵は計り知れません。こうやってPCやタブレットに向かい、ネットを通じ多くの方の考えを学んだり、自分の考えを述べたり、生活においてスイッチひとつで料理を炒めたり煮たりできることも、お湯を沸かし暖かいお湯に触れることも、そして仕事ができることだって資本主義下で生まれたシステムや技術のおかげです。
一方で、昨今の地震や線状降水帯による豪雨などの災害や、新型コロナウイルスが蔓延したことから資本主義下での生活を継続する今と未来へ不安を感じています。もちろんすぐさま資本主義下での生活をやめると主張することは暴論です。私が提案したいことは、資本主義下での生活を継続しつつも今まで通りの一本道ではなく、道を増やすべく生活の選択肢をつくることです。そのためにひとつの仮定を立てました。

それは

3.資本主義は つくることで始まり つくることで変わる

というものです。どういうことでしょうか?ひとつずつお伝えします。

まず「つくることで始まり」です。
歴史上、資本主義の定義は産業革命期から記述されますが、その萌芽は産業革命を待たずとも貨幣が発明されていない有史以前から始まっていると考えます。各人が得意なものを考え・つくり・交換する。交換することから交渉が始まる。ここが出発点と考えます。なので資本主義は「つくる」ことから起動していると思います。

次に「つくることで変わる」とはどういうことでしょうか?
それは、つくることで自身の生活における資本主義の「影響濃度」を変えるということです。
※以下、資本主義が生活へ及ぼす影響の濃度を単に影響濃度と呼びます。

資本主義下での生活とは端的に①お金を稼いで②そのお金で生活に必要な思考・具・物を他人に委託することと言えます。
食事を例に挙げると、思考(何を食べるか)・具(どうつくるか)・物(食べ物)の提供を他人にお願いすることです。
「思考を委託する」ということがポイントです。何を食べるか?さえも他人に決めてもらう、これは過去の自分の生活からの学びです。
影響濃度が高かった時の私の生活とは、終電を超えた深夜まで働き、その後夕食を食べていた、というものです。
深夜に帰るので自宅近くのスーパーが既に閉店しており、コンビニで弁当を買って食べていました。私は好きな料理を作れない(材料を買えない)ことに不満を抱えていましたが、深く疲れていたことから段々と料理をする気力がなくなり、コンビニ依存になってしまいました。深夜まで働く→料理ができない→コンビニで弁当を買う、という影響濃度を上げ続け、資本主義下での生活を強化する行動をしていたのです。
すると、帰宅時に駅から出たあと、何も考えずふらっと無意識にコンビニに向かう自分がいました。今では反省すべきひとつの過去と言えますが、食事に関しての思考をコンビニに委託していた時期でした。
時間や気力、体力に余裕がある段階においては、今日はこの料理をしたい、と前向きに思えるのですが時間も気力も体力もなくなると、料理自体が面倒になります。面倒なので、何も考えずコンビニに立ち寄り、瞬間的な欲望によりノータイムで商品を購入します。
これは見方を変えると、欲しいという欲望をコンビニに与えられている状態と言えます。コンビニでは次から次にキャンペーンが行われ、ビビッドな広告により購買欲が刺激されます。その都合、何か惹かれる感覚がして欲しくなってしまいます。欲に対する思考が巡らない状況と言えます。
瞬間的な欲望からノータイムで商品を購入できる状況こそ、影響濃度が最も高まった瞬間かもしれません。

一方で、深夜に疲れた身体でも食事をすることができる、という観点ではコンビニは感謝すべき対象です(深夜のコンビニ弁当は身体に悪いという話は置いておいてもです)。しかしここでは資本主義の影響度、という観点からそれは変えた方がいいという私の私感により論を進めます。

影響濃度を「つくる」という行為により、変えることができるのではないか?というのが私の考えです。そのことについて掘り下げます。

私は「つくる」ことには段階があり、それはwhat(何を)+how(どのように)の2段階により成り立つと考えます。思考を委託するということは、初段のwhatを他人にお願いすることになります。
先程、影響濃度が高い生活、コンビニの例では①ビビッドな広告→②瞬間的な欲望→③ノータイムでの商品を購入、と述べました。
ここで重要なことはそもそも何が欲しいのか、何が身体に必要なのか、つまり自分にとってのwhatを一考すらしていないという状況です。
whatがない状況とは、自身の生活を②の瞬間的な欲望で覆ってしまう、ということに他なりません。換言すると生活全体を覆う理念(長期視野)がないと言えます。生活全体を覆う理念がないため、瞬間的な欲望限定の生活となります。自分の場合、掃除や洗濯も億劫になってしまいました。できることと言えば、やはり瞬間的な欲望を満たすSNSや動画を観ることです。
一方、現在の料理をする自分は、whatがあるため自分に何が必要かがわかります。まず、何を食べようか?と思った時に、冷蔵庫にある材料と以前つくったものの履歴を思い浮かべます。そこから今必要な大雑把な栄養と時間から料理を考え、足りない食材を購入し、料理をします。なので以前のコンビニ弁当よりも栄養の偏りや量、そして味への無理がありません。自分たち向きにつくれます。またお金が節約できますし、楽しく前向きになれます。
一緒につくる人に感謝して、心地良く自分たちの味を美味しく食べることができます。

このように自分で何かをつくる状態は瞬間的な欲望に身を任せない、生活全体を覆う理念(長期視野)で生活を行えるようになり、影響濃度を変える手段と言えます。

以上が「資本主義は つくることで始まり つくることで変わる」の説明になります。一見、資本主義は自然現象のように未来永劫継続するかのように感じます。
しかし紛れもなく人が「つくる」という行為から始まり、人が「つくる」行為を見直すことで変異するシステムなのです。
私は資本主義は人が何かを「つくる」行為が根幹にあると考えます。※

4.自分の生活を大切にし、身近な物事をつくる

もちろん、分業化された現在の社会では生活物資の全てを自分で用意することは不可能に近く、私たちは常に何かの消費者です。
そして日々の生活に時間や心の余裕がないことは平常のことと思います。
その中で何ができるか?まずは、自分の生活を大切にすることです。
自分の生活を顧みることが生活にwhatを導入する第一歩目です。
次に生活に必要な身近な物事をつくってみることを提案します。
まずは「気軽に・少しずつ・趣味として」生活に必要なものごとをつくってみるといいと思います。特に例に挙げた食事は、毎日必ず必要とする、身近なものであるため少しずつつくってみる(私は料理をもっとも身近なDIYと言っています)ことをお勧めします。
すると、料理への多くのwhatが芽生えます。初めはネットで見たレシピ通りつくったとしても、それを食べる内に少し調味料を変えてみようとか、この食材を入れてみようと独自の方法に発展します。すると、次第にあれもやってみたいなと考えが変わり、忙しい毎日の中でも、あれをやるために週末仕事の時間を詰めようとなるかもしれません。その状態こそ、生活を覆う理念が芽生えた瞬間と言えるでしょう。

私自身、影響濃度が高い生活は日々守るべきコードが厳しく、少しでも逸脱すると自己嫌悪に陥るという束縛性を感じていますが、そこにいつつも「それはそう」と割り切り没入せずに済むようになりました。

以上が大まかな私の資本主義下での生活の選択肢を増やす理念ですが、そのためにまず私がつくるものは何か?
何かを「つくる」際、何より大切なものは、私たちの身体です。
健康な身体がなければ、つくりたい!と気力が湧くことはありません。
ですが影響濃度が高ければ高いほど、瞬間的な欲望に覆われ、身体を無視してしまう傾向があります。
なので私は、自分達の身体に目を向ける。ここから始めます。
もう少し具象化すると「知覚をつくる」ことから始めたいのです。
次回はその「知覚をつくる」ことについて述べて行きます。


※私は資本主義を大学等で専門として学んだわけではありません。あくまで資本論を中心とした独学です。なので、知識が体系化されておらず偏りがあります。
それでも学ぶうちに、資本主義の定義を求めることが難しいと感じています(〇〇主義とは得てしてそういうものかもしれません)。一方「資本主義下での生活」は紛れもなく毎日の「いま・ここ」に関わる対象であり、私たちひとりひとりの切実な現実そのものです。

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