時を刻むキャンバス
目の前を、一人の少女が走っていく。さらさらと流れるように揺れている川の土手の草花の間、髪を振り乱し、必死な形相で、カーディガンの下に寝間着を羽織った体のまま、一心不乱に走っている。
私は少女をキャンバス越しに目で追った。右から左へと駆けていった少女は、休むことなく走り続ける。その様子は、もうじき昼になることを知らせる長閑な高い日差しの下、土手を川沿いにのんびりと行き交う家族連れやカップルが多い中で、私の心を掴んで離さなかった。
彼女が見えなくなった頃、私は目の前に置いたキャンバスに目を戻した。縦型の四角い大きな枠の中には、真ん中に左右に伸びる川が鉛筆で描かれているだけで、あとはただまっさらな世界が広がっているだけだった。
私はかれこれ四時間も、この白い虚無の世界と対峙している。どうしても、この虚無の世界を埋めることができないのだ。川は、最初に描こうとした。そしてその通り、描けた。しかしその川を見ると私には何かが足りないように感じられた。「流れ」が、足りないのだ。目の前の川は絶えず水が流れているというのに、私の描いた川からはその流れを感じることができなかった。時は、そこで止まっていた。それに気付いて空を見上げると、今度は、雲が見えた。私は雲であればそんなに大きくは動くまいとじっと見つめていた。しかし、始めこそ形を保っていた雲は、見つめていれば見つめているほど、どんどんどんどん膨らんできて、しまいには二つに分かれてしまった。私は雲にも想像以上の動きがあることに気づき、それを描く気力が失せてしまった。そうして雲すら見ていられなくなって、落ち込んで首を下ろすと、今度は地面を這う蟻や虫けらが目に入ってきた。彼らは地面を小さく小さく這いつくばる。あっちで蟻がちょろちょろ走っているかと思えば、こっちではバッタのような虫けらがひょこひょこ飛んでいる。しかし虫けらの動きはてんでばらばらのようでありながら、彼らを見ていると、それが地面一面にどこまでも広がっており、得体の知れない一つの大きなうねりになっていることに気がついた。それで私は地面にも、目には見えない動きがあることに気がついた。
これまで静物しか描いてこなかった私には、これは大きな発見だった。しかし同時に絶望的な課題でもあった。動きのあるものをキャンバスに収めるには、一体どうしたらいいのだろう? 私は目の前にある自分が描いた川を見つめ、じっと自問自答し、時に鉛筆で線を描き、消した。答えは、いまだに出なかった。
そんなとき、私の前にやってきたのが、あの髪を振り乱して必死に走る少女だった。彼女の髪は止まることなく揺れていた。腕も、足も、休むことなく動いていた。しかし、どういうわけだか私には、その様子が一秒一秒切り取るに値する、かけがえのない瞬間のように思われた。
「彼女はどうして走るのだろう」
私はふと小さく、そんな言葉を口にした。そしてもう一度、彼女が走り去っていった方向へ、草花に覆われた土手道を見た。あの寝間着を着たままの少女は、もう見えない。
私は目の前のまっさらな白い空間に囲まれた川を静かに取り上げ、脇に置いた。そして別の脇にあるもう一枚のキャンバスを台の上に立て、鉛筆を握り、あの一心不乱に走り続ける寝間着を着たままの少女の後ろ姿を描き始めた。