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団塊ジュニア世代が見てきた東京メンズファッション30年史⑩

2010

アメリカがトレンドの最前線に返り咲く

ディオール・オムを真似た廉価なブランドが蔓延し、お兄系はもちろんファッションに詳しくない一般層にまで、細身で全身真っ黒なロックスタイルが浸透するようになり、急速に陳腐化していたこの時期。次なるトレンドセッターとして注目されていたのが「トム・ブラウン」だ。袖丈と裾丈を極端に短く仕立てたグレースーツを発明し、長らく続いたロックスタイルの対抗馬として際立った存在感を放っていた。保守的なビジネスマンを象徴するグレースーツが最新のファッションに返り咲くとは驚きだったが、これはカジュアル化が著しいモードへの反動という側面もあった。目が早いファッション関係者の間ではすでにプチ・ブレイクしていたが、09年にクロスカンパニー社(現ストライプインターナショナル)の出資を得て日本でのビジネスを拡大し、ファッション層を中心に認知が急速に広まっていった。ちなみに、テレビにもコメンテイターとして登場する『GQ』の鈴木正文編集長は、当時からトム・ブラウンの熱烈な信奉者だ。
 
そのトム・ブラウンが一時期在籍したこともあるラルフローレンから派生した新ライン「ラグビー(RUGBY)」が、日本上陸を果たす。米国内では2004年から展開しており、トレンドに敏感な若い世代に向けたポップで細身のデザインが特徴。コンサバ系ファッション誌の関係者はもちろん、それまでエディ信者だったファッション関係者までもが、原宿キャットストリート店のオープニングイベントに駆けつけていた。彼らの変わり身の早さには私も正直驚いたし、ファッションの儚さと危うさを印象付けた。さらに、トム・ブラウンをデザイナーとして招聘した最高級ラインの「ブラック フリース バイ ブルックス ブラザーズ」、LAを拠点にシャツ作りからブランドを始めたスコット・スタンバーグによる「バンド・オブ・アウトサイダーズ」(2004年)もメディアで好意的に受け入れられ、彼らのインタビュー記事も頻繁に紹介された。こうしてネオ・アメリカン・トラッドとも呼ぶべきスタイルが、2010年代初頭のメンズファッションの大きな潮流を成すことになる。
 
いずれのブランドも基本的には50〜60年代に活躍したジャズマンやアイビーたちが実践したアメリカン・トラッドなのだが、大きく違うのはシルエットだった。定番のボタンダウンシャツやブレザーもかなりタイトな作りになっていて、アームホールも狭く、高い位置に設定されていた。当然、広告やタイアップに起用されるモデルも痩せ型が起用されたが、ディオール・オム全盛期に重宝されたどこか翳りのある雰囲気ではなく、健康的で快活なムードが優先されたのは言うまでもない。それまで人気だったソフトモヒカンやウルフカットは、バリカンを使った2ブロックでトップはポマードでビシッと7:3に分けたスタイルへ取って代わりはじめる。さらに顎髭や口髭を蓄えることが受け入れられ、これまでの美容院ではなく、カットとシェービングができる理容店(バーバー)が人気になっていった。また、ディオール・オムやトム・フォードが打ち出していた大きくて直線的なウェリントン型から、小ぶりで丸みを帯びたボストン型やサーモント型へアイウェアの人気も変化していった。ブランドとしては定番の「レイバン」をはじめ、「オリバーピープルズ」や「モスコット」など、50〜60年代のアメリカンヴィンテージを元にしたデザインが主流に。こうして、2ブロック・ヒゲ・メガネのワンセットが最先端のスタイルとなり、以後しばらくファッションに敏感な男性たちの定番となった。

ラルフ・ローレンというラディカルな存在

アメトラ復権の流れで改めて存在感を発揮したのがラルフ・ローレンだった。1967年に創業した同ブランドのデザイナーでありオーナーのラルフ・ローレン氏は、ブルックス・ブラザーズでの勤務後にネクタイブランドに入社。幅広のネクタイをヒットさせ、その後独立したという経歴を持つ。その後、ウディ・アレン監督作の『アニー・ホール』(1977)で衣装を手がけるチャンスを得て、このスタイルが全米で大ヒット。ユダヤ系の移民という出自ながらも、自身の名を冠したファッションブランドを世界的ブランドへと成長させていった彼はまさにアメリカンドリームを体現する人物でもある。1986年、アメリカ人デザイナーとしては初めてパリに路面店を構えたことでも、その名声は確かなものとなった。
 
彼の生み出す服の特徴は、一言で表せば“デザインしないこと”である。スーツやジャケットといった普遍的なクロージングを基本に、ポロシャツやジーンズといったカジュアル要素を加えた商品構成となっていて、パリのデザイナーのように突飛なデザインや派手さは皆無。伝統的な英国紳士のスタイルを、アメリカ人の視点でミックス&マッチさせたスタイル提案が真骨頂だ。決して裕福とは言えなかったユダヤ人の彼が憧れていた、WASP(White Anglo-Saxon Protestants)のライフスタイルを、時代に即した形でアレンジする手法を確立。
 
ファッションは計画的な陳腐化を繰り返すだけで、本質的には変わらない。そのことを熟知していたからこそ、彼はあえてデザインをせず、スタイリングとライフスタイルの提案で新しさを主張した。80年代の広告写真を振り返れば分かる通り、そこにはWASP的な感覚が通底し、彼らのようになるためにはラルフ・ローレンの服が必要なのだと訴える。英国上流階級の子息子女が嗜むポロ競技に目をつけ、ブランド名に取り入れ、ロゴにしたのも彼らへの憧れゆえ。そうして、メインラインの「ポロ・ラルフローレン」(68年)、イタリアメイドの高級ライン「パープルレーベル」(94年)、ヴィンテージテイストを打ち出した本格派ジーンズライン「ダブルアールエル」(93年)という3つが主軸となった。
 
我々の世代においてもポロ・ラルフローレンは人気が高く、特にポロシャツとボタンダウンシャツはずっと定番として君臨していた。個人的にはあまりにもトラッドで普通という印象しかなく、あまり興味をそそるブランドではなかったが、このアメトラ復権のタイミングで、あえてデザインしない普通の服こそかっこいいということを気付かせてくれたことは大きい。2、3年すると見向きもしなくなるようなトレンド服とは異なり、メンズクロージングの本質を抽出したようなラルフの服は、この先も変わることなく一定のファンに支え続けられだろう。

ネペンテス出身デザイナーの活躍

トム・ブラウンやラルフ・ローレンといったネオ・アメトラ人気に乗じる形で、NY在住の日本人デザイナー鈴木大器氏による「エンジニアードガーメンツ」が、ファッション誌を中心に大きく取り上げられるようになる。英米トラッド、ミリタリー、ワークといったオーセンティックなスタイルを基軸にしながらも、メイド・イン・USAでディテールにこだわり抜いたデザインは、雑誌のテイストを問わず取り上げられコアなファン層を獲得。ネペンテスに勤務していた鈴木氏のフィルターで再構築されたアイテムたちは、単なる焼き直しのアメカジではなく、ありそうでない独特の素材感やヴィンテージ好きも唸るマニアックなディテールを備えていることがポイント。ネオ・アメトラとの相性も良く、年配のトラッド世代はもちろん、00年代以降にファッションに目覚めた若者たちの間にもしっかりとその名が浸透。シルエットやコーディネート提案をシーズン毎に微妙に変化させながら、現在まで高い評価を維持している。
 
また、ネペンテス出身のデザイナーで、もう一人重要なデザイナーにも新たな動向が見られた。ナンバーナインの解散から1年を経て、デザイナー宮下の再始動がアナウンスされたのだ。ブランド名は「タカヒロミヤシタ・ザ・ソロイスト」で、ショーは行わず展示会形式での発表となった。イメージヴィジュアルには俳優の村上淳を起用し、ナンバーナイン時代から作っていたアイテムを元にしながら、細部まで作り込んだジャケットやパンツに加え、つばの長いフェルトハットとガウチョ風ポンチョが印象的なコレクションを披露。以前のように直接的に音楽から引用するのではなく、ひとつひとつのプロダクトにフォーカスしてアレンジを加えながら、トータルコーディネートまで緻密に計算されていたのが印象的で、来場した関係者に改めてデザイナーとしての存在感を見せつけた。

世界経済の中心としての存在感を再び

こうして長年続いたタイトシルエットは引き継ぎながらも、より親しみやすい色柄と素材に置き換えられ、クラシカルなテーラードアイテムが復権。古き好きジェントルマンスタイルを現代的に再解釈したネオ・アメトラは、それまではトラッドなど見向きもしなかった若者たちに加え、ドレススタイルを基本とする『メンズクラブ』や『メンズEX』などのコンサバ系雑誌、スーツを得意とするセレクトショップもこの動きを歓迎した。モードの中心は相変わらずパリであったけれど、流行に敏感な男性が改めてアメリカを見直し、リノベーションが進んでいたニューヨークに目を付け始めていた。また、この時期からGAFA(グーグル、アマゾン、フェイズブック、アップル)と呼ばれるビックテック企業が急成長を遂げ、世界経済の発信地として返り咲き、その後に訪れるノームコアを自然に受け入れる土壌を作ったとも言える。
 
オバマ大統領誕生の余韻で前向きなムードが漂っていたアメリカでは、ケイティ・ペリー、テイラー・スウィフト、ブルーノ・マーズといった新しいポップスターが次々と登場してヒットを飛ばした。翻って日本ではAKB48と嵐がヒットチャートを独占し、男女ともにアイドル人気が固定化。そうした歌謡曲には目もくれないカルチャー好きの若者の間では、和製ヒップホップが着実に人気を伸ばしていくものの、それまで続いていたテクノやハウスといった洋楽志向のクラブミュージック人気は次第に先細りしていく。この頃の音楽とファッションには、直接的な相互作用が見られなかったのも興味深い。

相次ぐ英国カリスマデザイナーの訃報

アメリカばかりに言及してしまったが、当時のモード界についても書き加えておこう。まずショッキングなニュースとして挙げるのは、ジバンシィのデザイナーとして活躍し、イギリスを代表するデザイナーとして活躍していたアレキサンダー・マックィーンの訃報だ。40歳という若さで逝去し、死因は自殺とされた。長年のうつ病、ドラック問題、母の死、HIV陽性であったことなどが取り上げられ、さまざまな憶測が飛び交った。彼自身の名前を関したブランドは継続することになり、当時ウィメンズのヘッドデザイナーを務めていたサラ・バートンが後任に。さらに、原宿にショップがあったことで昔からのファンも少なくなかった英国人デザイナー、クリストファー・ネメスも同年に逝去。一方のイタリア勢では、ドルチェ&ガッバーナのセカンドラインだったD&Gが日本から撤退し、表参道の店舗も閉店(後にモクレールの旗艦店となる)。翌年には世界的にD&Gブランドを終了させた。ヨーロッパ系デザイナーにはあまり明るい話題はなかった年となった。

2011

東日本大震災とファッション

3月11日に発生した東日本大震災によって、日本全体が沈鬱なムードに包まれた。震災発生当時、私はロンハーマン神戸店のオープニングイベントに招待されていて、店内のシャンデリアが微妙に揺れたことしか確認できず、ホテルに戻ってからその惨状を知ることになった。津波が街を飲み込む動画が繰り返し放映され、続けざまに原発のメルトダウンが報じられた。放射能の影響を不安視して、生活拠点を首都圏から関西圏に移すクリエイターもちらほらと現れた。
 
ファッション界では生産工場の直接的な影響もあり、いくつかの東京ブランドはランウェイショーの取りやめがアナウンスされた。大災害や大事故で社会がダメージを受けるとき、いつもファッションの無力さを痛感させられるものだが、この年の発表された2012SSシーズンでは、それぞれのデザイナーが葛藤を抱えながらもコレクションを発表した。「アンダーカバー」を筆頭に、海外コレクションの常連となっていた「ミハラヤスヒロ」、「N.ハリウッド」、「ジョン ローレンス サリバン」、「ヨシオクボ」(2004年)、「ホワイトマウンテニアリング」(2006年)、「ファセッタズム」(2007年)、「ビューティフルピープル」(2007)などの東京ブランドが存在感をアピール。特にWish you were hereというメッセージを込めたミハラヤスヒロは、エモーショナルで印象深かった。

中目黒を拠点とするブランドの台頭

海外で発表するブランドの一方で、中目黒を拠点として展示会形式でコレクションを発表するブランドが注目され始めたのもこの時期。シューズ作りからキャリアをスタートし、長年に渡って独自のスタンスで活動してきたベテラン小林節夫による「マウンテンリサーチ」(2006年)、アウトドアやミリタリーをモダンにまとめ上げる藤井隆行による「ノンネイティブ」(1999年)、森敦彦と石塚啓次という元Jリーガー2人によって設立され、ハットとテーラードアイテムに定評がある「ワコマリア」(2003年)がその代表。ちなみに前述したコレクションブランド、ヨシオクボの拠点も中目黒だ。
 
また中目黒からやや離れた池尻大橋に拠点を置く「ビズビム」が、世界中の伝統技法を取り入れ、独自路線へ舵を切ったのもこの頃。デザイナーの中村ヒロキは元々スノーボードブランドのバートン出身で、藤原ヒロシに才能を見出されて2001年にブランドをスタート。当初は裏原から派生したシューズブランドという認識だったが、ワーク、ミリタリーを軸に、素材・縫製・仕上げまで徹底的にこだわったコレクションが、世界から注目を集めるようになっていた。エリック・クラプトンやジョン・メイヤーといった大物ミュージシャンがその顧客となったことも影響して、幅広い支持を得るように。ちなみに世界的ヒットを飛ばしたK-POPグループ、BTSのリーダーRMもビズビムのファンである。
 
また、アタッチメントとファクトタムの2ブランドは根強いファンを抱えて安定した人気を誇っていたが、恵比寿・代官山を拠点とする独立系ブランドの人気に翳りが差し始める。そうしたブランドと入れ替わるようにファッション誌に登場するようになったのが、多彩なグラフィックを武器にオリエンタルなムードも取り入れた「サスクワッチファブリックス」(2003年)、ミリタリーをはじめとするユーティリティウェアを得意とする「ネクサスセブン」(2001年)、グッドイナフやエイプでデザインを手掛けていたスケートシングによって設立された「C.E」(2011年)だ。

中国系資本による買収とインバウンド

この年の2月1日、ア ベイシング エイプが香港の大手アパレル企業ITに買収されたことが報じられた。00年代前半にはすでに裏原ムーブメントは沈静化していたが、中国・アジア市場では依然として高い人気を誇っていたエイプが中国系資本に買収されたことは、アジア市場における東京の優位性が揺らぎ始めていたことを示唆していた。裏原ブランドという画一的なイメージからいち早く脱却し、大人をターゲットに軌道修正をしていたソフ、ネイバーフッド、ダブルタップスらはすでに独自のポジションと固定ファンを獲得しており大きな影響はなかったが、90年代後半から続いてきたひとつのムーブメントが、いったん終焉したことは確実だった。
 
また、翌年の2012年から訪日外国人が急増。インバウンド客と呼ばれる外国人の多くは中国をはじめとするアジア系外国人が多く、彼らの爆買いが話題になっていく。2013年には初の1000万人超えを記録し、2016年には2,400万人に到達。わずか3年で2.4倍になった。銀座や渋谷といったショッピングエリアはもちろん、原宿や表参道でも彼らをよく目にするようになり、それが日常の光景となっていく。また、マスターマインド・ジャパンやビズビムなど、積極的に海外展開を続けていたブランドの展示会でも中国系のバイヤーを目にするようになったのも震災以降の特徴だ。

コム・デ・ギャルソン門下生たちの活躍

こうした混沌とした日本ブランドの中でも、ひときわ精彩を放っていたのがコム・デ・ギャルソンだった。数あるラインの中でも注目すべきは「ジュンヤワタナベ・マン」だ。多くの男性が好きな、ミリタリー、スポーツ、アウトドアといった要素を巧みに取り入れながら、切り替えやスタイリングの妙技で、いつも新しさを感じさせるコレクション内容は絶大なる安定感を発揮していた。あくまでウェアラブルであることが根底にあり、ザ・ノースフェイス、リーバイス、ブルックス・ブラザーズといったアイテムごとのコラボを投入する手法も確立された。中でも07年から10年まで続いた米バンソンとのコラボは、ジュンヤとしてはかなりシャープな仕上がりが特徴で、かつメイド・イン・USAというところが渋カジやヴィンテージを通過してきた男性の物欲を大いに刺激した。
 
また、コム・デ・ギャルソン出身のデザイナーもそれぞれ支持者を増やしていた。すでにウィメンズでは安定した人気を誇っていたサカイのメンズラインも大きく注目されるようになり、そのデザイナー阿部千登勢の夫で同じくコム・デ・ギャルソン出身の阿部潤一による「カラー(Kolor)」(2004年)を、雑誌でよく目にするようになるのも震災後からだった。ホワイトマウンテニアリング(2006年)の相澤陽介もコム・デ・ギャルソン出身のデザイナーだ。彼が作る服はブランド名にもある通りアウトドア的なアプローチが特徴で、サカイやカラーとは世代も方向性も異なり、ユニークなポジションを獲得。単なる機能性自慢のアウトドアに拘泥せず、グラフィックや多彩な切り替えによってオリジナリティを持たせ、ハイファッションとアウトドアウェアの狭間を狙い撃ちしたかのようなクリエイションを展開。東京の空気感を反映した、さまざまなブランドとのコラボでも安定した評価を得るようになった。さらに、ライダースジャケットやトレンチコートで女性から高い評価を得るようになっていた「ビューティフルピープル」(2007年)の熊切秀典もコム・デ・ギャルソン出身だ。個人的にも、カラー、サカイ、ホワイトマウンテニアリングのシャツやジャケットなどをこの頃から購入するようになった。
 
続く

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