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ポップアートはやがてインテリアになる

KYNE(キネ)というアーティストの描く、女の子を題材にした作品が雑誌BRUTUSで大きく紹介されていた。漫画家の江口寿史が描いたイラストのような作風が特徴で、ポップアートの一種として人気を博しているそうだ。

アートとして広く認知される一歩手前の状態が面白いという意見も一理あるし、いい意味での適当さがあった方が、アートの入り口としてはいいのかも知れない。オークションで高値になってしまう前に、新鋭作家の作品を手にしておくこともコレクターの醍醐味なんだろう。

アートは高尚であるべきだとは露程も思わないが、イラストとも思えるような作品をやたらとありがたる風潮には幾許かのわだかまりもある。アートなのか商業的なイラストなのか、その価値基準を判定するのは美術評論家やキュレーター、最終的には作品を購入するアートコレクターたちだ。彼らが作品に価値を見出し、実際に買値が付けば、それらはアートとして成立する。ちなみに現存するアーティストで至上最高額となっているのは、ジェフ・クーンズによる“ラビット”という立体作品だ。

社会人になってからモダンアートに少し興味を持った時に、マルセル・デュシャンの存在を知り、デュシャン以降のアートは作品そのものよりも、どのような意図を持って、どのように作られ、キュレートされ、展示されたのかという文脈=コンテクストが大事だと、とある先輩から教えられた。現代美術に関する書籍などをかいつまんでみても、同じことが語られている。

写真機が普及したことで、リアリティを追求する絵画のテクニックは存在意義を失った(部分的には残るけれども)。テクニック至上主義とも言えるプログレッシブロックに対抗したパンクロックのアマチュアリズムにも近いものがある。テクニックよりもセンス、そしてアイデアとコンセプトが求められ、ざっくりと言えば近代と現代を別つポイントだと僕は理解した。

意味不明な作品こそ、秘められたコンテクストがあるのではないかと、鑑賞者の好奇心を掻き立てること。それこそがモダンアートの出発点だ。作家が意図したことと鑑賞者が読み取るコンテクストが違っていてもいい。謎解きみたいなワクワク感を抱かせる、知的な仕掛けが肝心なのだ。

ちょうどそんなことを意識し始めた2000年代前半に、村上隆がルイ・ヴィトンとコラボして大きな話題になった。アニメのキャラクターみたいな作品を、なぜ多くの人々が持て囃すのかが不思議だった。そこで、個人的な好悪はひとまず置いて、なぜあのようなポップなイラストやアニメのフィギュアのような作品がアートと見做されて高値で取引されるようになったのかを知るべく識者の書評を読んでみて、自分なりにコンテクストを理解するように努めた。

村上はスーパーフラット理論なるコンセプトを生み出し、日本画と日本のポップカルチャー(主に漫画とアニメ)を融合させ、それをハイエンドなアートとして海外に持ち込んで認めさせたことが最大の功績なのだそうだ。そんなことを意識しながら、展覧会で実際の作品を目にすると、なるほどと思わせられた。ポップさの中にグロテクスさが同居しているからだった。諸手を挙げて好きな作家だとは言えないけれど、特別な存在であることは確かなんだと納得できた。

それ以降も、その先輩の奨めでマーク・ロスコ、オラファー・エリアソン、マシュー・バーニー、蔡國強などの展覧会に足を運び、いくつかの気付きを得るようになった。良い導き手がいた僕はラッキーだった。そうして、自分なりにコンテンポラリーアートやコンセプチュアルアートという奇怪なものを鑑賞する楽しみを得た。

コロナ禍になってから、横浜で開催された『バンクシー展 天才か反逆者か』に足を運んでみた。多くのファッション関係者の間で話題となり、影響力のあるアーティストの作品は実際に目にしておかないといかんだろうという、中途半端な職業倫理からである。現代社会への風刺やブラックジョークをゲリラ的手法で表現する、正体不明のアーティストと紋切り型の説明で紹介されてきたバンクシー。彼の作品は描かれた場所やタイミングが重要なのに、そのステンシル部分だけを切り取り、複製物として展示されていた。だから、そこにあるべきコンテクストやオーラのようなものはすっかり削がれていた。それをありがたがってスマホで撮影していた来場者たちの鈍感さに閉口した。

買値が付けばアート足り得るのであれば、バブル期の日本で大ヒットしたラッセンだってアートなのかもしれない。でも、お笑い芸人の永野が放つギャグ「ゴッホより〜、普通に〜、ラッセンが好き〜」にあるように、ラッセンが好きと口にする人は嘲笑されてしまう。村上やバンクシーにあって、ラッセンにはないもの。それこそがコンテクストであり、知的な仕掛けなのだろう。多くの人が下すラッセンへの評価は、ヤンキーの部屋に飾ってありそうなポスターということになる。

このようにモダンアートやコンセプチュアルアートと呼ばれる領域ではコンテクストが重要視されるが、事前の予備知識がないとモダンアートは全く楽しめないのかと言われると、そうでもない。知っておいた方がより楽しめるけど、まずは鑑賞者に興味を持たせるためのある種の力強さもしくはギミックが必要だ。それらは、意外性のあるモチーフやテーマ、過剰な色彩や構造、卓越した技法、性的な艶かしさ、暴力や死といったイメージ。こうした要素によって作品は力強さを得て、鑑賞者を惹きつける。

先日、ゲルハルト・リヒターの展覧会を見に行った。以前にもいくつかの作品を目にしていたが、改めて見入ってしまった。好き嫌いを超越した、まさに感情を揺さぶられる体験だった。他にそうした作家を挙げるとしたら、ダミアン・ハースト、オラファー・エリアソン、蔡國強が挙げられる。また、2010年代以降はアンドレアス・グルスキー、トーマス・ルフ、ウルフギャング・ティルマンス、ライアン・マッギンレーといった写真家たちもまた、そうした刺激的な体験を与えてくれた。

いずれの作家にも共通するのは、作品そのものから発せられるオーラのようなものだ。非日常を感じさせる異形さやおぞましさがあればあるほど、僕は作品に惹かれる。好き嫌いを超越して、鑑賞者の感情を揺さぶるかどうかがアートの本質なのであって、コンテクストは後付けでいい。むしろ、コンテクストありきで作品そのものに強さがなければ本末転倒なのだと思う。

冒頭のKYNEをはじめとするイラストアートの作品から、僕は特別な感情を抱くことはない。今時のカフェに飾ってありそうな、なんとなくお洒落で心地良い作品と思ってしまう。その点では、もはやアンディ・ウォーホルやリキテンスタインやデイビッド・ホックニーといったポップアートの巨匠も、本来持っていた毒気を失い、もはや安っぽいポスターのようにしか思えなくなった。前述したジェフ・クーンズもバンクシーもいずれそうなるかも知れない。

大衆文化への批判的な眼差しや、大量生産された物が持つ記号性をアイロニックに表現したポップアートだが、ミイラ取りがミイラになるが如く、こうした作家すら急激に陳腐化してしまっているように思う。分かりやすさや親しみやすさは、アートの民主化と好意的に受け取る人々が多いのかもしれないが、結局のところ毒にも薬にもならないポップソングのように、消費され忘却されていくのではないだろうか。

本当に刺激的な体験をもたらしてくれるアートは、とてもじゃないが毎日観ていたら疲れてしまう。だから美術館でたまに観るくらいがちょうどいいのだ。あえて嫌味っぽく言うならば、家の中に額装して楽しめるポップアートなど、所詮はインテリアでしかない。


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