芥川賞受賞作とドーパミンの話
今年の芥川賞受賞作『バリ三行』を読んだ。インドネシアの話とかではなかった。
「バリ」とは安全な登山道ではなく、藪の中をグチャグチャに入って進んだり、崖をよじ登ったりといった「道無き道を進むこと」であり「バリエーションルート」の略称だそうだ。
そんな「バリ」を会社内で浮いている変人が低山の六甲山などでやりまくっており、社内政治や生活にあくせくしている主人公が「俺もバリ連れてってや!」と言い出す話だ。
「命を賭けるとはなんやろ?」といったところがテーマなのだろうか。
主人公が「登山なんか遊びやん。そこに命を賭けているのが頭おかしい。マジになるのは仕事であるべきやろ」みたいにバリ狂いのおっさんにキレちらかすシーンがあった。
価値観の相違と言っちゃえばそれまでなのだが、こういうことってないだろうか。
僕も【遊びvs仕事】という議題になると、どれがマジで、どれが命がけで、どれがスリリングか、どれが「リアル」なのか……というのは考えなくもない。
バンドをやったり会社をやったり格闘技をやって生きているが、どこに「マジのリアル」が眠っているのか未だに分からない。
『バリ山行』の主人公の理屈ならば仕事や生活の基盤、軸こそがマジであるべきなのだろう。じゃあ趣味や遊びに「リアル」はないのだろうか。お金が絡まなきゃ半笑いでやるものなのだろうか。
僕は今年からボクシングをやっているが、ちなみに一銭も稼げない。むしろ金払っている。つまり趣味中の趣味、遊び中の遊びである。サウナやゲーム、カフェ巡りと何ら変わらない。
しかし「命賭けっぽさ」は日常の中でもトップofトップなのだ。
グローブで保護されているとはいえ、「全然知らない男を殺すつもりで殴る」というシチュエーションに違いはないし、反対に殴られるのは本能的に命の危機を感じる。相手も僕を殺すつもりなのである。
実際の保護レベルが高いため安全度は高いが、その「殺意」みたいなものに当てられる機会は日常に落ちていない。
何分かするとゴングが鳴り、途端に安全が保証されると、えも言われぬ安息感がある。
この「危険〜安らぎ」の快楽性のせいで、僕はすっかりサウナに行けなくなってしまった。もう全然「整わない」のだ。「効かない」かんじがする。強い酒に慣れすぎて、弱い酒だと酔えなくなったアル中に近い。
自分の暮らしにおいての収入源で一番デカイのは会社経営だが、「命を賭けている感覚」は皆無だ。100%自己資金で始めたビジネスなので、もっとドキドキしてもいいはずなのだが別に起きない。
近代において経済力というのは生命に直結する指標なのだが、やはり本能レベルではヒリつかないようにできているのだろう。
「金」とか「仕事」というのはどこまで行ってもフィクションなのだ。
たとえば「このコインとおにぎりを交換できるようにしような」と誰かが言いだして、物々交換から貨幣制度が生まれた。みんなが約束を守ったから今日まで成立している。
仕事だって「AくんとBくんがリーダーで組織作ってくれよな」とか「〇〇ってことにしような。それをみんなで信じてやろうな」というホモ・サピエンス特有のシミュレーションであり、言うなれば「ごっこ」だし、フィクション。つくりものだ。
しかし山での安全を手放したり、殴り合いで恐怖したりというのはフィクションでも何でもない
「バリ」は危険行為なので眉をしかめるひともいるらしい。でもデンジャラスドーパミンに酔う気持ちは分かる。
危険と安全を行ったり来たりする快楽というのは確実に存在する。高温で蒸され、水風呂で締められる気持ちよさはブームになるほど普遍的なものだ。
「危険が好き」というのはジェットコースターやホラー映画なんかもそうなのかもしれない。
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