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無意味に生きる~タモリ学を読んで~
最近ふと書店で見つけた「タモリ学」っていう本を読んだんですけどね。タモリさんが何を考えているかについて迫った本なんですけれども。
これぜひ皆さんにも読んでいただきたい。とても面白い本だし、とてつもない調査がされている。
これを読んでいて、なんていうか肯定されるんだという風に思ったことがあり、それが「意味」について。
これまで僕は、自分が自分である意味だとか生きている意味だとか、そういうものにこだわって考えすぎたという風に思っている。
マニフェスト=デスティニー(明白なる天命)というような。
これを探してそれに即して生きていくのも人生としてはありだという風に思うけれども。
これを見つけていない僕がいかに遅れているかという風に考えていた。そしてそれを、時代のせいにしていた側面もある気がする。
だから高校の時にアホで何もわかってなかったけど、ページをめくるごとにある人物がこういう戦いで、とかこういう出来事を起こしましたというのがうらやましかった。
どこみてそう思ってるんだよっていう感じだけれど。
しかしながら、現状「意味なく生きる」というのも生き方としてはいいんじゃないかという風にようやく思えてきた。
というより、今までそれを自分の中で認めてなかったに近い。やっぱり自分の身の回りの人が必ずまっすぐな目をしていたように見えたのが大きいのかな。
意味を強要してくる環境というのはたぶん自分は一生嫌いだと思う。過剰な物語や価値観をこっちに求めないでくれという風に思う。会計上の数字の意味とかは別にしてね。
「無意味」というのは虚無に直接つながるのか。これもタモリ学を読んでて思ったが、それはまた別問題なんだろう。二度目になるが、僕たちは過剰な自分の物語性をおもんばかるがために過去と現在、未来をすべてガチガチにつなげて考えている。
そもそも「私」という存在はその連続性の上に成り立っているから。
現状を肯定することから始まる。無意味に生きるというのは自分が生きているということがまっすぐでないということを分かって、そこに何も求めないことなんじゃないか。
老子じゃないけれども流れに身を任せることが大事でもあるということ。それが出すぎれば「空気」という風に揶揄されちゃうけど。今っていうことを分かっていればそこからは離れられる。一歩視点を引かなきゃいけないけど。
前に「タモリってさ」みたいな話を父としていた時に父が、
「だからそれを見出した赤塚不二夫はすごいんだ!」
みたいなことを言っていた。世代的にあまりよくわからなかった。赤塚不二夫氏は「天才バカボン」や「おそ松くん」など多様な作品を描いた大漫画家。
僕の父はバカボンのパパをなにも見なくても数秒でかけちゃう。バカボン大好きなんだなと思ってた。
赤塚不二夫氏はタモリさんの才を見出した一人。家に居候させてたこともあったらしい。
そんな赤塚不二夫氏の描いたバカボンのパパの有名な口癖と言えば
「これでいいのだ」
これはそういう今を認めるような意味が入ってる。
でもこの言葉は禅問答のようにいろんな深みを持っている。
そしてバカボンなどの作品もいろんな深みを持っている。
部屋で暇なときにバカボンを読んでいた時に、よくこんなに意味不明なギャグが思いつくなと思った。なんでもかんでも常識を反対にしたようなギャグ。本当に面白い。
意味を求めて幻想に迷うよりも、今に自分を注ぐことがいかに大切か。この二人は単なる考えの段階ではなく、行動の段階まで昇華した。
じゃないとイグアナやワニの形態模写なんてできないって。
タモリさんから赤塚不二夫さんに捧ぐ弔辞も素晴らしいからみんなに読んでほしい。
無意味、案外難しいかもしれない。そして父が赤塚不二夫という人間に憧れるのが分かった気がする。
今回は単なる受け売りかつそんなに自分の考えも述べていない駄文だがぜひ皆さんには「タモリ学」読んでほしい。赤塚不二夫作品も読んでほしい。
私は次なるヒントを求めるために読書をすすめようと思う。何か見つかるかもしれない。
後、なんか変なことしようと思う。