『未知の楽園 タクカイワナ旅行記』を読んで(空想読書感想文)
読書感想文コンクール 高校生の部 佳作
変わりゆく「文化」とわたしたち――『未知の楽園 タクカイワナ旅行記』を読んで
県立桃木高校2年 雁屋 卯衣
未知の楽園、タクカイワナ。
この本を手に取るまで、わたしは名前すら聞いたことがなかった。
タクカイワナ共和国は、インド洋に浮かぶ小さな島、タクカイワナ島のみを領土とする、人口8万人ほどの小さな国だ。
淡路島ほどの大きさしかないその島は、かつてはイギリスの植民地支配を受けていたが、特筆すべき資源もなく「忘れられた島」とすら呼ばれていた。その島にやってきた筆者は、南部にある首都バフミーカナである男と出会う。
北東のある村出身の男が、自分の村には「言葉」を信仰する風習があると語るのに興味を惹かれた筆者は、男とともに森の奥深くにある彼の故郷を訪れる。
「泊めてやってもいいが、一週間だけだぞ」
村の長老に釘を刺され、恐る恐る村に足を踏み入れた筆者を待っていたのは、奇妙な言語、タクカイワナ語を操る者たちによる風変わりな儀式の数々だった。
この本では、冒険家である筆者が1週間タクカイワナの村に滞在して見聞きした、様々な風習や村人たちの様子が生き生きと描かれている。
その中でもまず印象的だったのが、彼らの話す言語と「言葉」に関わる儀式だ。
タクカイワナ語は、タクカイワナでしか話されていない言葉で、どの語族にも当てはまらない、孤立言語だ。現代タクカイワナでその言葉が話されているのは主に北東部の村に住む数百人ほどで、人口の8割が集中する首都では英語やヒンディー語を母語とする人がほとんどだ。
タクカイワナ語を話す人は年々減っており、まさに「消えゆく言語」だといえるのだ。その一因として、タクカイワナ語は村で行われる儀式と強い関係にあり、村に住む人以外には広まらないためだ、と村に住む男は語っている。
彼らの儀式には、例えば「タクカ・エブ(聖なる文字)」というものがある。満月の前日に行われるその儀式を偶然目にした筆者は、その様子をこう綴っている。
そのシャーマンが言うには、タクカイワナにおいて子供が描く無秩序な図形や赤ん坊が話す意味のない言葉は、「イザンゴ(彼らにとっての神の総称)」そのものだという。
このように、筆者が見聞きした儀式はどれも独特で不思議なものばかりだった。その背後にあるタクカイワナの人々の思想も含め、読めば読むほど魅力的で、心惹かれるものだった。
日本にも「言霊」の思想はあり、また「言葉が物を創り出す」という思想は旧約聖書の起源神話にも通じるものがある。一方で「未知の言葉」への信仰というのは独特なのではないだろうか。
だが、その奇妙さに反してタクカイワナ語とそれによって行われる儀式はタクカイワナの都市住民にさえあまり知られておらず、「消えゆく」文化だ、というのにもショックを受けた。
筆者を村に招いた男によると、そうした状況に危機感を覚え、聖なる文字の儀式を観光ツアーの一環に組み込み、村の人口流出や儀式の衰退に歯止めをかけられた村もあるという。
だが男の村では「イザンゴは土地や動物などすべてのものだ。物珍しいからと聖なる文字の儀式ばかり行うのは他のイザンゴに失礼だ」という長老の方針で観光ツアーを受け入れていない、という。
その風習の独特さゆえに村の人々が大きな葛藤を抱いている、というのは、一口に「文化を守る」といっても一筋縄ではいかない現実を示しているようで、少し悲しい気持ちになった。
わたしの地元の村にも、「雉神楽」という変わった風習がある。
秋祭りの日に雉の羽を身に着けて舞う、全国でも珍しい神楽だが、近年は担い手不足や来場者の減少で、祭りも存続の危機にあった。
そこで、「よさこい」や音楽フェスなど新たなイベントを開催し、観光客を呼び込むようになった。
けれどわたしは、人が増えた嬉しさよりも、祭りが全く違うモノになってしまったかのような寂しさを感じてしまった。
筆者が訪れたタクカイワナだけでなく、わたしたちの身近でも「文化」を継承することの課題は多くある。
この本を読み、自分の身近にある「文化」を知り、絶えず「どうすればいいのか」と自分事として考えていく必要があると感じた。
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・読んだ本:伊藤凪・著、架空民芸出版(2015)『未知の楽園 タクカイワナ旅行記』
※この読書感想文はすべてフィクションです。実在の国又は地域、個人とはなんら関係がありません。
仮に同じ名前のものがあっても無関係ですので悪しからず。
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書影下側=カバー写真はフィールドノートの一部でだそうです。作中に出てきた聖なる文字もいくつかありますね(とらつぐみ・鵺)