故郷という水槽
沖縄の広い海を、空を、美しいと思いながら、どこか窮屈に感じていた。そこを抜け出すには、飛行機で海を渡るほかない。窮屈に感じていても学生でお金を持っていない私にはできないことだった。
それから何年も経って大人になった今、あの窮屈に感じていた島という水槽を時々恋しく思う。
でもそれは、私が今、そこにいないからだろうとも同時に思う。何がそんなに居心地を悪くさせるのか、それがいまだにはっきりとはわからない。
文化や気候、景色、そういったものは懐かしく、しかし、そこに「住む」となるとどこか躊躇う自分がいる。なぜそういうふうに感じるのだろう。
今住んでいるこの場所は、確かに立地はいいし、便利だ。沖縄で暮らしていたときよりも息がしやすい、とも思う。ここでずっと暮らすのかは今はわからないけれど。
暮らすということは、人との関係性がついて回る。それは社会性だとか、協調性だとか言われる類のものだ。
もしかしたら、それが自分には欠けているのかもしれない。親戚や近所の住人と何らかのかかわりをもつことを、見られて過ごすことを苦しいと思ってしまう。
それじゃあ1人がいいのか、と言われるとそれも違うなと思う。気楽に話のできる友人がいると心が安らぐし、時にはふざけたり、友人のおめでたいできごとをお祝いしたりといった交流は楽しい。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」
室生犀星がそう詠んだように、あの広い広い海に囲まれた水槽は、遠いこの場所で眺めるくらいが私にはちょうどいいのかもしれない。
けれどいつか、自分の肉体を失うその時は、あの海にかえりたいと思うのはなぜなのだろう。
町田そのこさんの『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』を読んでーー。
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