句点を一個しか使わずに、空海の空白の7年を想像で掘り下げようと、
書き始めようとしているわけでありますが、今日で句点を一個に縛る文章を書いて三回目なわけで、前回はこの方法を使うことで、脳の言語野が普段とは違う発火をしていることに気づき、歓喜し、その動力の持つ威力と楽しさにハマってしまったようですが、
やはりどこか、ためらいの気持ちはあって、こんな無茶な書き方にお付き合い頂いているあなたに対し、少しでも読みづらさを軽減してもらおうと、奮闘しているわけでありまして、
それが幸いなことに、頂いたコメントを拝見すると、ある程度は功を奏しているようでありまして、感謝申し上げるとともに、歓喜の感情が湧いてきたので、今日も継続してぜひご一緒に、勢いと疾走感と狂気的に発火する言語野の発露をお楽しみ頂きたい次第なのですが、
これまでは書き始める際に、何を書こうかという内容は一切決めずに執筆し始めておりましたが、今日は空海についてどうしても掘り下げたくなっており、と言いますのは、前にお伝えしたナイスな古本喫茶の店主様に、歴史サロンというイベントのお誘いを頂きまして、空海が好きだとお伝えしたところ、ちょうど次回のサロンが平安時代の回だということで、偶然の幸福に双方驚きながら、参加が決定いたしまして、10分ほどのお話する時間を頂き、空海のことを語ってみてはいかがとのご提案がなされ、二つ返事でこちらこそお願いしますという具合に、事が進んでおりまして、
さて、その歴史サロンといいますのが、1時間ほどの時間を使って歴史を語り合うというものらしくてですね、参加者のお一人は本を出版しているほどのプロの方ということで、もうひと方もそれに準じた歴史マニアの方だそうで、素人の私が入り込んでよろしいものかと、些か不安を感じながら、お邪魔させて頂く運びとなったわけでして、これは私が長く持っている空海へ敬愛を総動員させて対抗するしかなくなり、意気込んでいるのでありますが、
では、空海の何を語ろうとしているのかと言いますと、空白の7年間につてでありまして、空海が24歳で「三教指帰」を書き上げてから遣唐使船に乗るまでの間、所在を記した史料がほとんど残っておらず、謎に包まれているわけでありますが、そのあたり、空海はいったいどこでどんなふうに、時を過ごして何を思っていたのであろうかと、楽しい空想の材料としてはもってこいだと考えておりまして、
そのあたりのことを、歴史サロンで平安時代における話題の一つのきっかけになればと思い、準備している次第なのですが、困ったことに、現在、鬱らしき状態がうっすら続いているようでして、書籍を読み込んで史料をいい具合にまとめておく、というきっちりした作業が、どうやらできにくい状態のようで、とは言うものの、準備不足で初めての歴史サロンに臨みぐだぐだになるのもいかがなものかと、逡巡しているわけでありますが、
そこで思いついたのが、とにかく手を動かして、その空白の七年間についての思いを書き散らかしてみて、ある程度は情報を「見える」ようにしておけば、それを元に少しは整った形でお話できるのではと考え、今、こうしてキーボードを叩いているわけでありますが、さらに、句点を一つと決めれば、その勢いとドライブ感と、特別な言語野発火も手伝って、いい感じに頭の中の情報が掘り起こされながら、まとまりを見せていくのではないかという狙いも含みつつ、書き進めていくわけでございますが、私がお話しするのは10分ほどの枠なので、そう長くなく、出てきた情報の中から良さげなものを選び取っていくことになるのですが、
まずお話しようと思うのは、個人的な空海との出会いについてであって、最初は確か、司馬遼太郎の「空海の風景」で、えげつない天才が昔にいたものだなあ、なんて思った記憶があり、仏教哲学にも当時ハマっていて、その中の密教という一派の哲学にとくに興味を持っており、さらに苫米地英人も「空海はすごい」という本を出しているほど絶賛していたのもあって、哲学的な側面から空海の魅力にハマり込んでいったわけでありまして、それが大学時代の頃で、そこからはちょくちょくそれに関する本を読みつつ、空海が教える密教の考え方を取り入れ、暮らしていたわけですが、
決定的になったのは20代も終わりのころ、仕事に行き詰まり、躁鬱の波が最底辺に達し、どうにも大きな鬱から抜け出せず、希死念慮も幅を利かし始め、どうにもならない、やべえ状況だったのですが、ある日ふと部屋の本棚を見ると、「空海と高野山」という本が目に入り、「死ぬんなら高野山に一回いってみようか」なんて思い立ち、そこで本当に死にたかったら、そうすればいい、なんて危険な考えがもたげ、実際に実行するわけであって、
確かそれは年末あたりだったと思いますが、出勤すべき時間が迫り、どうしても仕事に行きたくなく、思い切って連絡もしないまま、高野山に向かう南海電車に飛び乗ったわけであり、遅い出勤時間のシフトに入っていたので、高野山に着いたのは夜の8時ごろ、あたりは真っ暗でほとんど何もなく、バスの終着点である「奥の院前」に降り立ったわけでありますが、さて、どうしたものかと呆然となってため息を吐きつつ、死にたい気持ちも半分くらい抱えながら、寒い中でうろうろしていると、その奥の院の入り口から山林に向かって、道が灯籠に照らされて、すうっと伸びているのを発見し、わずかな躊躇いのあと、その照らされた道筋に歩み入っていくわけでありまして、どこに続いているのかもわからないまま、誰ともすれ違うこともなく、この山奥の細道をずんずん進みながら、両脇に所狭しと立ち並ぶ墓石を横目に見つつ、若干の恐怖の感情が芽生えながら、距離にして800メートルくらいでしょうか、空海が禅行をされている御廟が見えるところまで辿り着いたのですが、そこでの不思議な感覚は今も忘れられず、最後の御廟橋の前に立った時、こう囁かれたような気がしまして、「こっちにはまだこなくていい」というような、雰囲気で伝わってきたというか、ああ、こっちに行ってはダメだ、と直感的に知らされた気がして、そこから引き返すわけですが、帰り道とは別の、さらに奥へ伸びている分かれ道に入っていき、さらに1.5キロほど進んでいくわけでありまして、もちろん誰一人ともすれ違うことがなく、真っ暗とはいいつつも道の両脇にはずらっと燈明が並んでいるので、薄暗い中で石畳が延々と続き、林立する墓石の密度は薄まることもなく、墓と墓の間をとぼとぼと歩いていくのですが、その道中はというと、もう無心というか、うつろうつろ、ぼうっとしながら、何も考えられず、ただ両足が地面につく感覚を噛み締めながら、右、左、と足を運んでいくのみでありまして、突き刺すような寒さがあるにも関わらず、どこか胴体が暖かい気がしてきていて、死に場所を探す気力もそう言えばどこかに失せており、両脇の墓跡がまばらになってきて、道の終着点に来てみたら、そこは「一の橋」という、奥の院の正規の入り口だったのでありまして、私は道順を逆にやってきたようですが、足の疲れを少し感じながら、その最後の橋を渡ったわけでありまして、すると、まあ、なんてことでしょうか、信じられないほどの、生命力が身体から湧き上がってきて、疲れも完全に吹き飛び、死にたいなんてことは露ほども思わなくなっていたわけでして、不思議な力の存在を確信し、驚くとともに感謝の念が滲み出てきて、目の前に広がるお寺の前に掛かっている提灯の光が鮮やかに煌めいて、足取りは軽く、頭はすっきりし、「ここでしばらく生きよう」と決意した次第でありまして、やはり、空海はいるのだな、と強く腑に落ちた感覚を持ち、その夜はどこかのベンチで野宿して、翌朝、住み込みで働かせてもらえるお寺を探し、ほぼ飛び込みで面接を受けさせていただき、1年間、奉職したのでありまして、
さて、私と空海の出会いについてつらつらと書いてきたわけでありますが、ああ、想定したよりものすごく長くなってしまって、困っているわけでありますが、どうしましょうか、これを歴史サロンで全て語れるわけもなく、ええ、うーん、右上に表示される文字数は3329文字と出ておりまして、いやあ、でも、こういう経験があるということを示せたのは収穫でありまして、これももちろん、普通の書き方じゃあここまで明け透けに語れるはずもなく、句点を使わないことによる言語野発火が止めどなくなったことの現れでありまして、吐き出せてよかったな、という気持ちと、こんな長文を句点なしでここまでお読み頂いたあなたへの感謝と、歴史サロンで話す内容の整理に至らなかった悔しさとが、ブレンドされたような気分でありますが、いいや、歴史サロンの実施は明後日の20日なので、明日にまた、文量に注意しつつ、とくにテーマを「空白の7年間」に絞るように努力し、同じように句点なしで書いてみることに致しまして、
大急ぎで付け加えると、その空白7年間が明けた年というのは、空海が三十一歳のとき、遣唐使船に乗ることになる直前でありまして、その年齢というのは私がここで語った高野山で命を救われたときの年齢とほとんど一緒なので、そのころの空海に自分を重ね合わせるが故、余計に、当時の空海がいったい何をして、どんなことを考え、どんな暮らしをしていたのか、というのに強く感心を寄せてしまうわけなのでありまして、そういう意味で、前置きとして有効というか、本論への橋渡しとしてありなのではないか、と言い訳めいたことを言いつつ、今日のところはこのあたりで締めとさせて頂きます。