今日こそ、句点(。)一つだけで空海の空白の7年間をなんとかまとめようと
取り組んでいるわけでありますが、ちょっと気負いすぎていた節を感じていまして、昨日書いたとおり、古本喫茶の店主さんからお誘いを受けて、歴史サロンに参加する運びになりまして、はて、何を語ろうかと考えた時に、空海への思いを押し出す以外になくてですね、そのあたりを少しでも整理しておこうと意図して昨日は書き始めたわけですが、空海との出会いを語るとそれだけでいっぱいいっぱいになってしまい、肝心の空白の7年にまで届かなかったのでありまして、今日、それをリベンジしようとしているのでありますが、どういう狙いかと言いますと、お相手はせっかくプロの方でありますので、純粋に持っている疑問をご提示させていただいて、その7年の空白を埋めるための想像の確度をあげられるように努めてみようということでして、さほど気張るほどのものでもないなとも感じ、ちょっと肩の力を抜いて、今も書き進めているわけですが、句点を使わないことによって、その勢いで純度の高い疑問が見えるようになってくるのでは、という気持ちも込めて、取り組んでいきたいのですが、
さて、ではまず、なぜ7年もの空白が存在するのか、ということでありますが、単に資料として残っていないことと、空海が自身であまり語らなかったということがありまして、「御遺言」という、空海の弟子が生前の空海の語った言葉をまとめた本があるのですが、そこにも、24歳から31歳までのことについてはあまり書かれておらず、本人が口を閉ざしているという点が、空白にしている原因でありまして、それがなぜなのか、というのが想像をさらに掻き立てる要因となっているわけでありますが、
想像を進める前に、以前、高野山に住んでいるときに、お坊さんにこのあたりのことを聞いてみたことがありまして、24歳から31歳までお大師様は何をしてはったんでしょうか、と伺うと、「どうやろなあ、わからんけど、考えるためには、今と全然違う国やったってことは抑えとかなあかんで」と言われまして、要するに、山の中を駆け回って修行していたのは間違いなさそうなんだけれど、今みたいにそこらじゅうに街が広がって、田舎であってもぽつぽつと店があって、食べるところもあって、というわけは全くなかったし、町なんてほとんどなかったし、そもそも人もあまりいなかったとのことで、修行するにしても、今とはえらい違いがいろいろある、という旨のことを言われ、なるほど、と腑に落ちた記憶があるのですが、そんなわけで、ひとくちに7年間修行していた、と言いましても、その進め方というのは今とは全然違う厳しさがあったわけで、食料は、移動は、衣服は、雨をひさぐ小屋は、と細かい部分を考えた上で、それはどこで、どんなふうに、誰と、などと想像していかなくてはいけないのですが
さらに、疑問が湧いてくるのは、その7年間のあと、唐に渡った先で、向こうのお坊さんたちと互角以上に会話できたというのですから、中国語と漢詩をかなりのレベルでマスターしていたのも間違いなく、それはこの7年間で習得したと考えるのが妥当で、もちろん、大学に通っていたのでそこの講義である程度は、というの説もありそうですが、それでは足らない気もしていまして、どうしても7年の間に語学の師匠と出会っていたのでは、と思えてしまうわけなのですが、そんな人と出会うとは、どんな状況なのか、という疑問と、それに関する教材について、外国の資料というものは、どんなふうに触れられたのか、当時の本の流通についても気になるところでして、
また話が前後するのですが、空白の7年間が始まった24歳のとき、「三教指帰」という日本初の戯曲を書き上げて、姿をくらますわけなので、想像する手がかりとして大事なものになってくるのですが、その内容と致しますのが、性欲にまみれたダメ男に、儒教、道教、仏教、仙人、それぞれの立場から諭していくという話であって、結論、仏教の優位性を表すというものになっていて、当時の大学は儒教中心で展開されており、空海の胸のうちでは「儒教より仏教より学びたいねん」みたいなものがあったと想像でき、その結実、宣言が「三教指帰」に現れていると読めるわけで、だとしたら、やはり、その後の7年間は仏教への向学心は強く確実にあったとみて間違いなさそうだし、そうなると、どのように学んだのか、という疑問が残るわけなので、さきほど述べた本の流通についても知らなきゃいけなさそうだし、なにか学舎やお寺があったのでは、と考えるわけで、史料に残っていても良さそうなのになぜか残っていないという謎もあり、
さらに、これに関係して踏まえたいポイントがあって、司馬遼太郎も「空海の風景」で一章まるまる使って語っていることなのですが、いくら天才といえども、若い時分に必ず芽生えてくる、性欲についてでありまして、さきほどの「三教指帰」でも説諭の対象になるのは性欲まみれのダメ男をどうするか、ということについてだったし、生命力が溢れかえっているエネルギッシュな空海に、性欲がなかったというのはどうしても実像とずれる気がするし、私の過去を振り返ってみても、あの、抑えようのない下半身の蠢きというのは処理に困るものであったわけですし、誰もが経験するあの燃え盛るような何かは、きっと空海にもあったと考えて差し支えないはずなので、それをどのように昇華したのか、気になるところでありまして、とくに24歳から31歳というのはその真っ盛りなはずなので、なにかしらの逡巡が行動に現れてもおかしくなく、7年間を埋める大事なトピックになる気がしておりまして、そのあたりを想像するために、当時の性愛がどのようであったのか、男女関係がどんなあり方だったのか、ということも歴史サロンで聞いてみたい内容でして、
さらに最大の謎に移りますが、なぜ空海が遣唐使船に乗れたのか、ということでありまして、その直前までが空白の7年とされるわけですが、7年ぶりに史実に顔を出したのは、国の公認の僧侶になったという史料でありまして、それが遣唐使の出る直前だったわけなのですが、謎が多く、なぜどこの馬の骨かもわからない一介の私度僧が、急に官僧になれたのか、政治工作をするにしても相当の金が必要なはずだし、その払い先の有力者のツテはどうやって手に入れたのか、金を稼いだとしたら、どうやって稼いだのか、一説には水銀を掘り起こして売ったというのもあるようですが、いずれにしても、謎だらけで、面白いんですけども、お聞きしたい事実としては、遣唐使船のメンバーの選出に関して、政治の内情がどんなふうだったか、そこと空海が繋がるとしたらどんな方法やツテがあるのか、あと、金を稼いだのなら、当時の経済というか、価値が置かれていたものは、どんなものがあるか、といったことを聞いてみたいわけでありまして、
さて、歴史サロンで提示したい疑問はこのあたりで出揃った気がしていて、まとめてみますと、なぜ7年間が空白になったのか、それは性欲が絡んでいるのではないか、当時の性愛のありかたはどんなだったか、人工分布はどんな具合で、修行するとしたら、どんな選択肢が考えうるか、本や知識の流通はどんなものだったか、遣唐使に乗るとはどういう意味でどんな力が必要なのか、当時の稼ぎ方、価値を置かれたものはどんなものか、水銀なのか、というあたりが疑問として見えてきたわけで、これを明日にお聞きするわけでありまして、そうすると長年興味を持ってきた空海の空白の7年に光が射せそうな気がして楽しみなので、そろそろ寝ることにします。