くちびるぬりぬり

世間体を気にしよう。そうだ、保湿だ。くちびるというのはままならないもので、気付くと色を失い、顔にとけこんでしまう。俺はくちびる自体にセクシーさを感じたことはないが、肌色にまで落ち込んだくちびるを垂らしているのも忍びない。
使用方法に書いてある通り、利き手の右手でノズルをマイナス2/3πにした状態で押し、ぬかりなく左手で受け止める。大江の「鳩」という短編に書いてある通り、「ぶあつく柔らかい掌のくぼみへのたびたびの射精」のように、精液二日分ほどの量を取る。マツキヨの「弱酸性 BODY MILIK（無香料）」をだ。それを指と生命線の間に溜めて、俺は左手をくちびるへ押し付ける。そうして、右回りに三周ほどぬりぬりしたら、それで保湿は完了したかに思える。

どうしてリップクリームを使用しないのかというと、よく失くすからだ。それ以外に理由などない。大学の女性の先輩に化粧を教えてもらってから、セザンヌの「皮脂テカリ防止下地【ライトブルー】」（七百円ほど）やら、ウーノの「フェイスカラークリエイター ｆ」というＢＢクリームの一種（千二百円ほど）やら、セザンヌの「ストレッチコンシーラー３０オレンジ系」（三百円ほど）やら、買いこんで顔に塗りたくっていた。ちなみに、価格は当時のことで、今は違うと思われるのだが、そのときにちゃんとリップクリームも買ったはずなのだ。たぶんマツキヨの。でも失くしたのでわからない。
はじめてリップクリームを使ったのは小学生のときで、母親が買ってくれたものを無造作に唇に塗りつけたのだが、三十分もしないうちになんか変な感じがしたので洗面台の手拭きタオルでふき取った。相互不衛生にも程があるが、とにかくなんか変な食感がしたのでリップはいやだった。その後も、なんとなくリップを齧るようにして塗っていたら速攻で腐ったのでもうやめた。
しばらくし、高校の時にはさすがにリップを再開していた。前の席のともだち（アホ）が「なあ、スティックのり貸してや」と言ってきたので筆箱に入れていたリップを渡すというボケをしたら普通に気持ち悪がられた。
リップクリームをどうやって持ち歩けばいいのかマジでわかんない俺だが、そんな俺でも保湿はしたい。ポケットの中から、筆箱の中から、化粧ポーチ（ついぞ外で使ったことなど無いのだが！）からするりと逃げていくリップクリームに変わって、俺は新しい保湿の方法を見つけた。それがはちみつパックだ。
先述のマツキヨ「弱酸性 BODY MILIK（無香料）」の説明文には、「高保湿成分ワセリン・シアバター・はちみつ・ももの葉エキス配合。」と書いてあったので、いろいろ調べてみるとダイレクトにはちみつパックというのが世の中にあるそうだと分かった。
俺はレモンパックなら聞いたことがある（はやみねかおるの『怪盗クイーン』が使っていたのを覚えていた）のだが、そのレモンパックは実はお肌に悪いらしい。なぜなら世の中の衛生用品のほとんどが人間様の肌に合った弱酸性を謳っているなかで、レモンのp.hは2.1~2.3ほどもあるらしく、これはむしろ肌に悪いらしい（ということは『怪盗クイーン』の肌は酸っぱいのだろうか？）。
じゃあ真夏の部活ママたちのはちみつレモンとか市販のレモネードの原液とかを塗ればいいじゃあないかと思うのだが、美容の世界はそこまで甘くないらしく、だからド甘なはちみつを顔に塗るといいらしい。なので、リップクリームをよく失くす俺は世間体を守るべく真冬にはちみつパックやってみた。
ネットに書いてあった方法では、とりあえず水気のない顔に大さじ一杯（約15g）のはちみつを塗りたくったら、顔にラップをかけて五分間放置したのちにぬるま湯で洗い落とす、とのこと。
実際やってみて思ったのだが、食品を食べる以外の用途で使うのに抵抗がものすごくあり、もったいない気持ちが強かった。でも保湿されそうな見た目と手触りと味だし、やってみると非日常を楽しめた。たぶん結婚式でライスシャワーするときの気持ちはあんな感じなんだろうな。
ただ、「顔にラップして五分」は普通に死ぬんじゃないかと思ったので、説明にはなかったが勝手にに通気口を作らなきゃいけなかったのがめんどくさかった。
はちみつを顔に塗って、唇に塗って、そしてラップで軽く自殺未遂をしながら五分間、アレクサに音楽をかけてもらうと、家族が大好きなMrs. GREEN APPLEの「ケセラセラ」が流れたのでちょうどよかった。五分だから。「ここを乗り越えたら楽になるから」という歌詞が胸にしみ、はちみつが目にしみた。
「ケセラセラ」を聴き終わると説明通りぬるま湯で顔のはちみつを洗い流した。それから、なんとなく習慣でまたマツキヨの「弱酸性 BODY MILIK（無香料）」を、ノズルをマイナス2/3πにした状態で押し、出した精液のような液体を顔全体に塗ってしまった。これにははちみつ成分が配合されているらしい。

　と、いうわけで、俺の顔は保湿されて世間体は守られた。よかったよかった。