よるのうろうろ

また、歩いているときや、電車に乗っているときなど、一定のリズムで体が動いているときには、とんでもない面白い発想が出てしまうことがあります。注意しましょう。

中島らも「頭の中がカユいんだ」(p.31)集英社.

よるにはうろうろしてしまう。夜中、散歩したくなるのは僕だけではないかもしれないけれど、僕は家の中だろうと、外だろうと、うろうろしたくなってしまう。どうしてなのかは、どうでもいい。このうろうろに、僕は「個人的でリリカルな妄想」とだけ名付けている。

僕はいろいろなところをうろうろするけども、一番気に入らない(つまり落ち着かなくて、いちばんうろうろしちゃいがちな場所)は、リビング~ダイニング~キッチンの一帯だ。
僕の家は普通に、リビングがあってそのとなりにダイニングテーブルが置いてあってその奥にキッチンがある。仕切りは特にない。僕は、階段からお茶をキッチンでとって飲み干すと、そこから、つい、うろうろし始めてしまう。頭は、「個人的でリリカルな妄想」に埋め尽くされる。うろうろはうろうろだろう。そういうとき、僕はいつもスマホを探しているか、眼鏡を探しているか、読みさしの本を探しているかする。「何か探さなきゃ!」そんな思いだけが僕のよるの頭をぐるぐるまわって、でも僕はなにもできなくてうろうろうろうろ、ソファの向きにに従ってリビングを横切り、ダイニングテーブルをすり抜け、冷蔵庫の前で止まり、そして振り返る。元に戻ってそれから元に戻る。「アレ?どっちから始めたんだっけ?」って思い出して、ああそうだ、僕は麦茶を飲んでからうろうろしはじめたんだって思ってそれでも止まらなくてそれでもいい。

歩くと頭が回る。でも、家の中でうろうろすると精神が独楽回しされて、それで嫌なカーヴのかかった思考、妄想、願い、なんかが溢れてくる。独りで楽しむと書いて独楽。越天楽のような平行な精神と、そして軸がブレ始めるブレインストーミング。そして小さくまとまる体と誇大妄想に打ちひしがれるリリシズム。ほら、こういうのが頭から湧き出てきて、僕は今にも席を立って書くのをやめて、最高の表現を立ち歩きながら探すのかもしれない。

考える、という言葉はやっかいで、ドストエフスキーの「悪霊」では無神論者の男子中学生はしどろもどろになりながら、

「僕が自分の思想を最後まで言いきることができないでいるのは、僕に思想がないからじゃなくて、むしろ思想過剰のせいなんだから⋯⋯」と言う。

ドストエフスキー「第二部 第七章 同志たちのもとで 1」『悪霊』(p.104)江川卓訳 新潮文庫.

思想、哲学、そういう言葉をやめて「考えること」「思考すること」と言おう、みたいな言説があるが、これもふざけた話で、「頭でっかちになるくらいなら基本に立ち返ろうよ。」って言ってるだけのことで、それがあろうことか人類が脈々と培ってきた「哲学」という学問体系自体を批判してる格好になっているのも笑える話だ。むろん、アカデミアの先生方はそんなこと気にしちゃいない。

哲学という言葉を、鎧を脱ぎ去ろうと、どうしようと、ぼくのよるのうろうろはやめられない。僕の脳にはなにか特性があるらしい、とかふざけたことを聞いたことがあるし、結構真に受けている。でも結局ぼくの頭を埋め尽くすのは、「悪霊」の彼のような「個人的でリリカルな妄想」だけだ。あー、いやになるな。
なんとか頭を良くしようと思ってドストエフスキーを読んでみたら、「白痴」や「悪霊」はそうした滑稽なインテリゲンチャを徹底的にバカにしていて最高に笑えた。

discussという言葉と、despiseという言葉の意味はそれぞれ、「議論する」と「軽蔑する」で、僕はそんなwordplayをして、(自慰行為に浸っている。)こうして、リリカルな妄想がずっと僕の脳の中をうろちょろする。
僕もうろちょろする。でも、どこへも進んでいってはいないのだ。家の中、ダイニングテーブルを挟んでリビングとキッチンを往復しているだけ。あれ、スマホはどこにやったっけ?そんな疑問も、告白する鼓動の前では意味をなさない。むしろ、焦燥という焚き付けで、もっとうろちょろするだけだ。そうさ、「頭の中がカユいんだ。」中島らもの著作から引用しようと思って読み返したけど、あれマジで抜くとこないね。まあいっか?

「いや、ハイボールにしてくれる?」
「キャーッ!」
「何が”キャー”だよ」
「ううん、意味もなく叫んでみただけよ」

中島らも「頭の中がカユいんだ」(p.150)集英社.


さあ、まぬけどもは急に眠たくなって眠るけど、この《符牒》に飛び跳ねる若き頭には同情の余地がある。僕はよる、家の中をうろつき、それなりにいいイヤホンを耳に突っ込んで深夜徘徊するかもしれない。今日は風邪をひいていたんだった。眠ろう。眠りたいんだ。実はね。

大島渚の極小のエッセイ「わが封印せしリリシズム」は最高に若書きで良かった。「ワカガキ」というのは、若い感性がそのまま書かせた、芽吹きのような文体ではないと思う。逆だ。青春の悔恨を、いい年した大人がくよくよ書くから若書きなのだ。リリシズム。「私はこう感じた」というそのことを、その性的/静的/制的な憤懣を、封印した大島の頭の中に、個人的でリリカルな妄想は果たして存在していただろうか?

個人的な反響音が、僕の歩行に合わせて頭の中に鳴り響く。


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