『価格の心理学』—行動経済学から読み解くSaaS値上げ施策の是非
買って良かったマーケティング本をリストしていくnote、その17冊目。
2018年から2019年にかけて、日本のSaaSでも価格変更が相次いでいます。最近では上場したばかりのfreeeが値上げを発表し、一部メディアでも話題にもなっていたところです。
私が所属するクラウドサインでも、過去価格変更を行ったことがあります。その準備をはじめたころ、経済学やマーケティング観点での価格政策に関する本を20冊ほど読んだ中で、当時の私の誤った考えを正してくれたのが『価格の心理学』です。
合理性だけでは決まらないのが価格
本書は、価格は「需要と供給」だけでは決まらないということを、経済学の手法と心理学の実証実験を組み合わせた行動経済学の観点からまとめたもの。
従来の経済学は、前提が単純すぎる。人々が最大効用を探求するという発想は、明快だが短絡的である。ところが伝統的な心理学をビジネスに応用すると、複雑になりすぎてしまう。(P301)
実際には目の前にあるニーズにしか対応できないので、将来的なニーズや潜在ニーズに対処するためには、それらをいま、目の前にあるニーズに変える必要がある。しかもニーズを予測し、戦略を的確に調整するのは不可能である。将来の動きを正確に理解して予測するための情報量は膨大で、極めて複雑な作業なので、人間の頭脳では物理的に不可能なのだ。
本書で紹介した心理的効果は、すべてそのような限定的正確さを前提としている。(P304)
言ってしまえば、合成の誤謬に代表されるような、人間の認知・認識力の限界をついた手法のオンパレードなのですが、行動経済学の教科書よりも具体的に、新しい価格モデルまでカバーしているところは参考になります。
P269-271のコラム「価格モデルは何種類あるか」は、MECEさに欠ける箇条書きではあるものの、圧巻の網羅性です。
1. 定額価格
2. 顧客に合わせた相場
3. 月額の会費制や定期購入制
4. 成果の一定割合
5. 資産価値や取引額などの一定割合
6. 一色のパッケージ料金
7. 費用プラス一定の手数料
8. 時間あたり料金制(プラス原材料費)
9. イギリス式オークション(オークション会場のような競り上げ型)
10. オランダ式オークション(アムステルダムの花市場のような競り下げ型)
11. セカンドプライスオークション(イーベイ型)
12. 業界標準価格(役者への最低支払額など)
13. 単価設定(記者や翻訳者の1ワードあたり料金など)
14. 物価連動型の年間報酬
15. 部品別の価格設定(デル方式)
16. 基本料金プラス追加料金(一般的な航空料金など)
17. 提示価格
18. 需要に連動した価格設定
19. 事前発注割引
20. 無料と有料グループの組み合わせ(広告料収入で運営されているメディアなど)
21. フリーミアム(基本的な商品やサービスは無料で提供し、高度な機能には課金する)
22. 利子の徴収
23. 違約金制(銀行の当座貸越や不法駐車など)
24. カミソリと替刃モデル(本体と付属品に分けた価格設定)
25. 所得に応じた料金制(一部の労働組合は給与に応じて組合費を徴収している)
26. 限界費用価格
27. マーケットシェア拡大のための値下げ
28. 普及に伴う値下げ(技術製品では一般的)
29. 頻繁な価格変動
30. 期間限定の割引
31. 季節料金制(休暇シーズンのホテル料金など)
32. 購入量に応じた割引(3個買うと1個サービス)
33. 食べ放題
34. 競争価格
35. 資本参加
36. 高度な専門サービスに対する報酬
価格は予測するものではなく顧客にとっての価値の探求によって導かれるもの
ただ単に、こういった「ずる賢い」価格設定テクニックだけを学ぶ本かといえば、そうではありません。
読者がこの本を読むことを通じて得られるものとは、そうした行動経済学や心理学に基づいた値付けテクニックの前提となる、「ユーザーは、何を基準に自社のプロダクトに対する購買判断をしているのか」を改めて考える時間だと思います。
その基準とは、ずばり顧客にとっての「価値」です。そして、求める価値が顧客ごとに異なるからこそ、さまざまな価格の提示方法が必要になる、というのが、本書の結論です。
その結論自体にはあまり意外性はないのですが、これだけ徹底的・具体的に手法論を語った上で、「顧客ごとに感じる価値は違う」「それが何かを知るには、結局それぞれの顧客と対話するしかない」という当たり前の原則に気づかせてくれるのが、本書の効用だと思います。
私も、本書を読むまで恥ずかしながら「SaaSは、一律公平でわかりやすい価格設定をしているからこそ、多くのお客様が安心して継続利用してくれるのだ」という誤った激しい思い込みに囚われていたのですが、その誤解が解けただけでも読んでよかったと思います。
SaaS企業にとっての値上げ
さて、冒頭の話に戻ります。SaaS企業はなぜ値上げをするのでしょうか?
その理由を端的に一言でまとめるならば、「日々高まっていく一方の顧客のご要望に応えてサービス価値を上げるため」です。
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SaaS企業は、ある顧客が契約期間を通じてもたらしてくれる利益(LTV)を想定しながら、サービス利用価格を算出し決定しています。
たとえば、通常5年(60ヶ月)は使ってくれるだろうサービスを月額10万円で100社に販売すれば、得られる想定売上はトータル6億円です。ここから人件費等費用5年分を引いて利益が残るようなビジネスが作れれば、企業はサービスを続けることができることになります。
とはいえ、ものごとはそう単純ではなく、当初は革新的でその会社しか提供できなかったサービスも、5年も続けていれば技術革新や競争にさらされていきます。日々高まっていく顧客の期待と要望に答え満足いただくためには、事業に投資してプロダクトとサービスを向上し、価値を高め続けなければなりません。そのための原資として、当初想定LTVを上回る利益が必要になります。基本的には、この投資に回すお金を工面するために、SaaS企業は値上げを検討することになります(物価上昇などその他の変数もありますが)。
そして、このとき決めた値上げ幅が、プロダクト・サービスの進化によってもたらされる価値に見合っていないと判断されれば、顧客は離れていきます。意図せぬ早期解約は、事業計画のベースとなっているLTVの前提をこわし、解約→想定よりも利益減る→投資に回せない→競合に負ける→顧客がさらに早期離脱する…というデススパイラルにつながります。
そうならないためにも
・値上げによってサービス価値が向上する根拠を見せる
・その顧客の求める価値ごとに適切なサービスプランを設定する
・価値と価格が顧客にとって見合うことをわかりやすく伝えていく
ことが重要になります。
2020年もオンプレミス→SaaSへの流れは加速し、値上げを発表するサービスも次々現れてくることと思います。
この企業は顧客価値について考え抜いて値上げをしているか?
自社都合の利益のために小手先のテクニックで値上げをしていないか?
本書を読んだ上でリリースを見れば、すぐに分かるようになるでしょう。