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「何をしてもうっすら退屈な状態」を抜け出すには。
<はじめに>
以下に続く一連の文章は、国分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』および千葉雅也さんの『現代思想入門』に多大な影響を受けています。明確に引用している箇所はないものの、上記2冊を読まなければ到底書けなかった文章だという点は、最初に強調しておきます。
また、哲学や思想の説明・解釈の誤りにまつわる責任はすべて私にあることも、同じく強調しておきます。
<インターネット漬けの日常>
まずは当たり前の話をしましょう。人類はインターネットに浸かりすぎましたね。暇を潰すならまずインターネット。物を買うにもインターネット。旅行のリサーチにもインターネット。散歩するにも道順を確認するためにもインターネット。どうあがいても生活と切り離せない存在になってしまっているのは、きっと自分だけではないでしょう。
押し寄せる情報のすべてを処理できる能力はまだ人間に備わっていません。ほとんどの情報は無意識的にスルーされるようになり、自分にとって都合のいい情報だけに目を留める習慣ができた。というか、そうせざるを得なかった。
では、なんのために情報を選び取っているのか。大抵の場合、その根本には「満足したいから」という気持ちが作用しているでしょう。物を買って失敗したくない。道を間違えたくない。見るべき観光地に行き、良いものを見たという経験を得て、ときにはそれを他人に自慢し(その手段すらインターネットであることが大半ですね)、旅行に成功し、満足感を得る。
しかし、その翌週にはまた別の旅行先に思いを馳せたり、なんとなく退屈だなという気になって別の娯楽を探したりする。新しい刺激を求めて、際限なくインターネットの海をさまよってしまう。そんな経験はありませんか。自分はあります。どうしてこうなってしまうのでしょう?
<満ち足りた状態とは何か>
一時的に満足感を得たとしても、少し時間を置けばまた別の何かを求めてしまう。これが満足の正体だとしたら、本当の意味で満ち足りた状態とはなんなのでしょう。ちょっと乱暴に言ってしまいますが、そんなものはないんじゃないでしょうか。
満足は、食事に例えられるかもしれません。満腹まで食べても、数時間もすればまた何かを食べたいと思いますよね。満足も同じ様な仕組みです。ずっと満腹な状態が続かないように、ずっと満足した状態も続かない。
でも、食事は物理的なものだし、人間が生きるのに必要不可欠だから、腹が減る仕組みになっています。本来はこの違いを仔細に検討するべきなのかもしれませんが、この文章の趣意ではないので、ここでいう「満足」はあくまでも精神的なものに限定します。
(物理的に100%に到達することで連鎖的に精神的な満足を得ることもあるけれど、それらは別の現象だと割り切ってしまいましょう。雑かもしれないけど、許してください)
<満足に必要な要素>
先の娯楽の例からわかるように、精神的な満足は一時的であることがほとんどです。それは、人の目指すべき本来のスタイルなんでしょうか。そして、仮に本来的だったとしても(人間に「本来の姿」などないという哲学的な議論もあるんですが、ここでは目を瞑ります)、それを目指すことで人生をよりよいものにしていけるものなのでしょうか。
もう少し満足の実体を捉えたいので、精神的な満足という状態を別の言葉で説明してみましょう。たとえば、自分の理想が叶った状態。たとえば、期待していたものが期待通り、またはそれ以上に享受できた状態。より具体的な例を挙げるなら、意中の相手に告白してOKをもらうこと。狙っていた服をセールで安く買うこと。競馬に勝つこと。ゲームで強敵を倒すこと……等々。
たしかにどれも「精神的な満足」と合致する状況かもしれません。ただ、ケースとして散漫で、どれも的を射ていない感じがしてしまいます。
もっと簡単な話にしてみましょう。たとえば耳の裏が痒くなった場合、だいたいの人は掻くいうアクションをとり、その結果によってもたらされるポジティブな感覚を享受できます。痒いところに手が届いたら気持ちがいい。それだけの話です。
しかしそれを満足と呼べるでしょうか。何かをしたいと思う。実際にそうする。期待した状態が返ってくる。この一連の流れ自体は耳の裏を掻くときも同じです。でも、そのときの感覚を「満足感」と表現するのは、少し大袈裟な気がしてしまいます。
なぜ耳の裏を掻くだけで満足は得られないのか。真っ先に浮かぶ理由としては、実現に対するハードルがあまりにも低いから。簡単にクリアできてしまう行為では、満足感を得にくい。この考えは、まったくの的外れという感じはしません。耳の裏を掻くのと比べれば、旅行は気軽にできるものではありません。だからこそ実現したときに「満足」につながる。そう考えるのは自然でしょう。
つまり、乗り越えるべき障害があり、それをクリアしたときに満足が発生すると考えるのが妥当なのでしょうか。でもちょっと待ってください。私にとってそれは「満足感」ではなく「達成感」という言葉で表すのが妥当であるように感じられます。
では、「満足感」と「達成感」は同義なのでしょうか?
<満足と達成の違い>
インターネットで服を買うときに、明確な目標を立てる人はいないでしょう。注文し、それが届くのを待ち、受け取り、箱を開けて包装を破き、手に取り、着用し、鏡のなかの自分に似合っていることを確認し、そこでようやく「満足感」を享受する。ここに「達成感」を当てはめるのは日本語の感覚からすると不適当です。
こう考えると、満足感と達成感は明確に違うもののように思えてきます。その違いとは何か。事前に目標があるかどうかの違いか。あるいは、実現の難易度か。つまらない結論ですが、その両方なのでしょう。
しつこく繰り返しますが、満足感は消化されていってしまいます。だから、満足を求める限り、人はいつまでも満ち足りることはきっとありません。『暇と退屈の倫理学』を読んで、私はそういう風に考えるようになりました。
漫然とコンテンツを消費し、その瞬間は楽しみつつも、次の日には「何か面白いことないかな」とだらだらテレビやインターネットを見るだけの毎日に陥っていく。満足は溶けやすく、自己肯定にもつながらず、一時的にしか私たちを癒してくれないからです。その状態が続くと、何をしていてもうっすらと不満で退屈な状態に陥っていく。心のどこかが常に曇っている感じがする。これはどう贔屓目に見ても健全な状態とは言えないでしょう。
一方で、「達成感」は何をもたらすでしょう。達成感も同じく減衰していくものではありますが、満足感よりも持続する感じがします。自分はこれだけのことを成したという自信が芽生え、それが心に根を張ってくれる感じ。大なり小なり、そういう経験をした覚えはないでしょうか。達成を繰り返していくことが大事なのかもしれません。人生は、満足を追求するものではなく、達成されるべきものなのかもしれません。ちょっと体育会系っぽくて自分の肌に合わないなと感じつつ、そういうものかもしれないとも考えています。
達成すべき目標が大きなものである必要はないと思います。幼少期から野球漬けだった少年がWBC出場を「達成」したとしても、小学校の絵画コンクールでの入選ができなかったり、夏休みにアサガオを咲かせられなかったことを後悔しているかもしれない。何が価値ある達成なのかは、人によって異なります。
自分にとって価値ある目標を定めることが、人生の達成における第一歩ではなのかもしれない。最近はそんな風に考えています。
<目標の立て方>
どんな些細な場面でも、達成のチャンスはきっとあります。たとえばyoutubeを見ている間に、何かひとつでも自分の知らなかったことをインプットして書き留めようという目標を立てておけば、それができたときに「達成」となるでしょう。
ただ注意したいのは、他人依存の目標を立てないこと。たとえばTwitterで100いいねを得ることを目標にしてはいけない。100いいねの実現には自分がコントロールできないさまざまな要素が関わるため、思うように「達成」といかないかもしれないし、逆に自分がなんの工夫をせずとも偶発的に達成できてしまうかもしれない。それでは自分の力で達成した感触が得られない。あくまでも自分の行動によって成否を判定できる目標にすべきでしょう。たとえば毎日小説を1時間書くとか、休日に資格の勉強を10ページ進めるとか、そういうことでもいいと思います。
<思考が達成を導く>
すでに書いたように、満足だけを追い求めていると生活が無味になっていく気がしています。もしあなたが、時間とお金に余裕があるのになんとなく人生がつまらない(退屈だ)と感じているのなら、最近「達成」したことは何かを考えてみるのはどうでしょう。何もないかもしれません。小さい達成に目が届くかもしれません。いずれにせよ、エンジンをふかすきっかけになる可能性はあります。
とはいえ、達成至上主義ではいささかマッチョな結論のように見えてしまいます。陰気で怠け者の自分には耳が痛いので、テストの点数や営業成績だけが達成の基準ではないと、ここで改めて強調しておきます。なんでもいいと思います。日々の体験を、ただ素通りさえしなければ。
<コンテンツの消費>
少し話を変えましょう。世にはコンテンツを「消費する」という言い方があります。しばらくピンときていなかったんですが、ここまで書いてきたような考えを経て、ようやくその意味がわかり始めてきました。「ああ面白かった」「エモかった」そうやって真っ正面からコンテンツを楽しむことも大切だし、価値のあることです。辻村深月さんの『スロウハイツの神様』でも書かれていたように、「ただただ面白い」というだけでコンテンツが人を救うことだってある。
一方で、ずっとそればかりを繰り返していると、コンテンツに「満足」を求める体質へと変わっていってしまうのではないでしょうか。満足感は必ず減衰し、次の満足を求める。アニメの続編に、別の作家の小説に、昔の映画に。パターンはいくらでもあるけれど、それがコンテンツを消費している状態なんじゃないか、というのがいまの自分の捉え方です。
満足を求めている限り、心の底でうっすらと煙のように漂う退屈を吹き飛ばすことは、きっとできない。じゃあどうすりゃいいんだ。達成を目指そう。達成に必要なのは何だ。思考と行動だ。
<思考と行動>
コンテンツを摂取して、そのなかで触れた知識や価値観を自分の血肉にしていくこと。それが満足を達成に変えるために必要なことなのだと思っています。
たとえばクラシックを題材にした小説を読んだら、実際にそのクラシックを聴いたり、コンサートに足を運んでみる。医療をテーマにしたドラマを見たら、入門書を読んでみたり、医学史を調べてみる。もちろん、知識の補填はあくまでも一例です。ルッキズムがテーマになっていたら、それに関して思うがままに文章を書き、自分の価値観を顧みる。同じテーマの本を読んで考えを深めてみる。やれることはいくらでもあるでしょう。
でも、大抵の人はそんなことはめんどくさいと切り捨てて、次の満足を求めて新しい娯楽に手を伸ばします。それでもいいと思います。楽しみ方は自由です。でも、一回立ち止まって思考を深めてみるのもありかもしれませんよ。私の本音はそんなところです。
もちろん、漫画やアニメに限った話ではありません。美味しい料理を食べて「美味しかった」と満足するだけでは、また美味しい料理を求めて食べての繰り返しになってしまう。たとえば料理や食材の名前をひとつ覚えるとか、使われている食器について知ってみるとか、そういうことを積み重ねることを目標にすれば、食事にも達成を見出すことは可能です。
気分が乗ったときだけでもいい。エネルギーが余ったときだけでもいい。体験の後に思考と行動を重ねていくことこそが、「消費」から脱却する唯一の手段なんじゃないかと考えています。
<脱構築>
そんなこといちいちやってられんよ。
娯楽なんだからもっと気楽に構えようよ。
そういう考え方もあるでしょう。私はそれを否定しません。
千葉雅也さんの『現代思想入門』で「脱構築」という考え方が紹介されています。善と悪。プラスとマイナス。男と女。世の中にはさまざまな二項対立があります。でも、そういう二元論で考えることって、リアルの問題解決には役立たないよね。そういう指摘を、ドゥルーズという哲学者がしたそうです。私はそれを読んで、深く深く頷きました。
たとえば親を殺した少年がいたとします。悪に見えますよね。でも、虐待からきょうだいを守るために親を殺したとしたらどうでしょう。単純にそれを悪と断じることはできないと思いませんか。そういうことが、世界中で毎日起こっています。
あえて主語を大きくしますが、人類として経験値を蓄積したいのであれば、白か黒かで考えるのではなく、それらを一歩離れたところから冷静に見てみることも必要なんじゃないか。『現代思想入門』は、そういうことも教えてくれました。
だから、この文章も同じです。「コンテンツの消費をやめろ」とか「達成だけが人生を豊かにする」とか、一面的に主張したいわけではありません。自己擁護に見えるかもしれないし、どっちつかずのように感じるかもしれません。でも、この現実を、複雑な要素が絡み合う人の生き方を、二項対立ベースの考えるのは無理があると思います。だから私の考えも、あくまでひとつの可能性として捉えてもらいたいです。
<結びに>
こんなほころびだらけの雑文を書いた理由を紹介します。つまり自分語りゾーンなんですが、ほんの少しなので付き合ってください。
理由は単純で、『暇と退屈の倫理学』と『現代思想入門』を消費したくないと思ったからです。哲学の本なんて読んだことのなかった自分にとって、面白く、新しい世界だと感じた。自分の思考を整理してみたいと思った。そして、考えることは面白いと再認識できた。その証拠を、残しておきたかった。だから書いた。それだけです。
つまり、この文章は私なりの思考と行動の結実であり、もっとラフに言えば『暇と退屈の倫理学』と『現代思想入門』の読書感想文でした。
以下にリンクを貼ったので、よかったら皆さんも読んでみてください。
最後に、著者である国分功一郎さんと千葉雅也さんに、心からのお礼を。素晴らしい本をありがとうございました。