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待てる人。待てない人。

【連載】哲学エッセイ『メタフィジカル・ジャーニー』 考えることは、旅をすることに似ている。広くて、深い、形而上の旅へ。

人間はせっかちだ。待てない。行列に並ぶことはできるが、待つことは苦手である。行列に並べる人なら待つことが得意なのでは? と思うかもしれないが、あの行列に並んでいる人たちの心性はもう待っているという感覚ではないのではないだろうか。ものぐさでせっかちな自分には基本的には行列に並ぶことはできないのであるが、あれは待つ、待たされるというよりも並ぶというある種能動的な行為なのではないかと思うのである。

たまたま上野動物園で人生で初めてパンダを見て来たのであるが、まだ小さい人気のパンダには朝から行列ができていた。待ち時間は50分と書かれている。果たして短いのか長いのか。今ならスマホがあるので、50分くらいならそんなに長い待ち時間とは感じないだろうか。でも、年々、動画は短いのが好まれるようになっている。これはどういうことか。時間の不思議に触れると、これまた底が抜けてしまうのであるが、でも、人には時計の針のように誰もが客観的に見ることができる時間と、自分の内的な時間(1日があっという間と感じたり、10分がものすごく長く感じたり)がある。これは誰もが経験的に知っていることではないだろうか。

僕たちは楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうと感じるということを知っている。逆に退屈な時間はとても長く感じるということも知っている。だから、人はできるだけ楽しい時間をできるだけ長く感じたいと思っている。あたりまえのことであるが、ここでひとつ大きなパラドックスがあることがわかる。楽しい時間が多ければ多いほど、感じる時間は短くなってしまうのである。毎日が楽しい人には、人生はあっという間だろうか(毎日が楽しくなくても人生はあっという間に感じるけれども苦笑)。

さて、話をパンダに戻そう。じゃなくて、待つということに戻そう。ある人にはパンダを見るために並んでいる時間は楽しい時間なのかもしれない(パンダを見れる時間は待っている時間のその何十分の一だとしても)。それであれば、きっと苦にはならないだろうし、パンダを見れた時の感動は余計に大きくなるかもしれない。だから、人は並んで待つことができるのかもしれない。

そもそも、なぜ待つというのがあるかというと、そういった時間的な流れというものがあるからである。もう少し言えば時間という観念があるからだ。そして、その観念がなぜできたかというときっと人が生まれて死ぬということが起こるからではないだろうか。その時に人は生から死を一直線上に捉える物差しをどこかで考えついたのかもしれない。時間という観念ができたのはいつ頃なのだろうか。たしかにあるが、非常に曖昧なものである。それは先に述べたようになぜか平等の時間があるのに、内的な伸び縮みする時間があるからである。でも、今の人たちは時間というものに縛られているといってもいいくらい時間ばかり気にしている。時間なんていうただの観念に人は縛られているのだ。そのおかげで、人は待ち合わせができたりするが、時間に縛られると人生=時間になってしまう。しかし、それは果たして真実だろうか。

僕たちは何もしなくても時間は進むものだと思い込んでいる。だから、待つと時間を損をすると思ってしまう。それは本当だろうか。待つというのは一体何を待っているのだろうか。待つということには、相手がいる。それは人だけでなくものごとだったりもする。自分の時間と何かが交差する瞬間が起こることを待っている。つまりは未来というものを信じているからなせる技なのだ。

そして、僕たちは時間が経てば経つほど命の時間が短くなると思っている。究極的にはそう思っているから待つことが苦手なのではないだろうか。待てば待つほど、命は短くなり、1日は損なわれていく。その感覚があるから待てないのではないだろうか。しかし、自分の外のものごとを変えることはできない。何時に待ち合わせとしておいて、自分の都合でそれを早くすることはできても、相手が必ずしもその時間に来るとは限らない。それでも人は待つということができる。

人生は短い。それでも、いや、だからこそ、焦らずにその時を待つことができる人になりたいと思う。そうなれれば、時間に支配されるのではなく、時間を生きることができるようになる。そして、待つことが難しいからこそ、待てる人が必要なのだ。それはそれこそ命懸けだからである。そう、待つことは命懸けなのだ。

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