建築は世界と接続し、世界を構築するためのひとつの概念体系である(建築批評に関する覚書)
先日映画監督で脚本家のクエンティン・タランティーノによるCinema Speculationという本を読んだ。この本は映画の作り手でもあるタランティーノが、1970-80年代のアメリカン・ニューシネマを代表する映画をいくつか取り上げて、それぞれを独自の目線で批評していくという構成をとる。ホラーやスリラー、刑事物からドラマまで、多様なジャンルから幅広く作品を抜粋しており、タクシードライバー(1976)以外見たことのなかった僕は、基本的に夜に映画を見て、次の日の通勤時間にその批評を読むというサイクルで読み進めてみた。
興味深いことに、タランティーノの批評を読むと、前日に観た映画の印象がガラリと変わり、まるで映画を2回観たかのような感覚によく陥った。映画が画面の枠組みを越えたコンテクストの中で、タランティーノの脚本によって新たに描き直される。批評という形式をとりながらも、同時に批評が新たな映画でもありうるように、この本は書かれているような気がしたのだ。
詳細はぜひ本書を読んでみてもらいたいが、簡単に今思い出せる例を挙げると以下のようなパターンに分かれると思う。
もちろん、程度の差はあるし、特に最初の例では批評が映画になるというよりは、批評を経て映画が別の映画になるといった方が適切かもしれないが、全てに共通して言えるのは、批評を通してタランティーノのオリジナリティが浮かび上がってくることだ。つまり紹介されている映画がタランティーノの視点によって再脚本化され、彼自身の作品としても成立しているのだ。タランティーノ独特の語り口、批評自体にオチがあるような文章構成からも、恐らくこれは意図的なのではないかと思う。ある意味脚本家としての性が出ているというか、映画の作り手としての意思表明・マニフェストのようにも思えてくる。
僕はこの本を読む中で、タランティーノの批評や映画に関する文章に対するこの姿勢に、何かとても共感できるような気がした。そして建物に関する文章や批評も、同じようにそれ自身が建築、あるいは建築的行為になれるのではないかと考えさせられた。さらにこれを突き詰めてみると、その根幹には僕自身が建築について考え始めた時に感じた、建築の概念としての側面と実践としての側面の間の対立があり、そして現代の建築批評が「モノ」としての建物にこだわりすぎていないかという、違和感にも繋がると気づいた。以下この点について僕自身の考えをまとめてみる。
建築は世界と接続し、世界を構築するためのひとつの概念体系である
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