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建築における”ここ”と”あそこ”-「基点」という考え方について
0. 写真を撮る事で「定点」を複製していく
建物を見に行った時、僕はいつも愛用しているソニーのミラーレス一眼カメラでその場所の写真をたくさん撮る。もちろん「いい空間を記録しておきたい」「インスタ映えする写真を撮りたい」といった動機がないわけでもないが、むしろ写真を撮ることは僕にとってその建物を理解し、評価する一つのバロメーターになっている。
昔から、肌で良いなと感じた建物は総じて写真が撮りにくいと思っていた。通常は撮っていく過程でその建物の大体の全体像みたいなものが自分の中で組み上がっていくのだが、良いなと思う建物はいくら撮っても撮り切れていない感覚がつきまとい一向に全体像が見えてこない。写真には収まりきらない、都市的な拡がりを肌で感じる建物。物質としては掴み切れない何かが存在している気がする建物。例えば原広司の京都駅がそんな建築だ。
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一方で、ここで撮ってくれ、というステートメントをハッキリと感じるような建物もある。空間と自分の間に一対一の関係性を強いるような建物。例えば、神という超越的な他者を空間に見出す教会建築などは、この一対一の関係性が極めて効果的に働く。この場合建物の全体像は割とハッキリしているため、カメラでパシャパシャ撮ってもあまり意味はなく、むしろそっと座って建物が導くままに空間と対峙して自己の内面の深みに入っていった方がこの建物に対する理解が進むように思う。こういう建築には、カメラという視点からは浮かび上がってこない、別の評価軸と良さがあるように感じる。
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前者の場合、写真撮影を通して建物の全体像を浮かび上がらせるというプロセスと、それを通してもなお全体像が見えてこない時のその建物が持つ豊かさとはなんなんだろうかと常々考えていたが、恐らくそれは様々な他者の「リアリティ」が建物の中に併存し、必ずしも一つの全体像に集約できないと感じている状態なのではないかと考えるようになった。そして僕にとっての「写真を撮影する」という行為は、その建物の中に併存している多様な他者のリアリティに自分を置き換え、「定点」として複製し、記録していく作業なのではないかと感じるようになった。
自分と空間の間に一対一の関係性しかない場合、そこには主観という一つのリアリティしか生まれないだろう(もちろん、前述の教会建築のように、主観というリアリティから"想像"したり、"瞑想"したりする事で生まれる豊かさはあるかもしれないが、あくまでも個人としての体験は脱していない)。しかしそこに他者の介入を許容し、その存在を意識させる仕組みがある場合、そこでは自分以外の無数の他者のリアリティが実体ではない”何か”として知覚できるように思う。それは「あの人はあそこで何をしているのだろう?」といった実在する他者に対して生まれるゆるい感情かもしれないし、「あそこであんなこともできそうだな」と、ある場所に仮想の他者を見出しそれを自分と置き換える想像力かもしれない。そしてこのような他者のリアリティとの間に生まれる関係性が無数に存在する場合、自分が実際に感じている空間の豊かさと、ワンシーンを切り取らざるを得ない記録メディアとしての写真との間に齟齬が生じ、「撮り切れていない」と感じるのではないだろうか?「定点」を複製し、記録するという作業が追いつかず、ついには破綻する。機械(カメラ)による客観化の限界を知る事で、その建築の豊かさを知る。
これは例えばスクランブル交差点には無数に人がいるにも関わらず、それぞれの人に普通は意識が及ばないように、とりあえず他者がいればいいというわけではない。むしろ、建物がうまく"何かしら"をコーディネートすることで、はじめて他者が知覚可能になり、他者との関係性が見えてくるのであり、それこそが設計という行為の妙なのではないかと思う。
今回、一時帰国中の日本でこんなような事を考えていた。そして色々な方々と議論し、色々な場所を巡る中で、他者との関係性を知覚可能にする設計手法のキーワードとして「基点(Reference Point)」という考え方が浮かび上がってきた。そしてその基点として作用しうる建築の要素として「風景」「縁側」「庭」の3つを発見することができたので、それぞれについて以下論じてみたい。
1. 風景を共有することで他者に自分を「移し置く」-松原市民図書館と太田市美術館・図書館
まず「他者との関係性を知覚する」ことと、それを可能にする「基点」という建物の所作について考え始めるきっかけになったのが、大学の先輩である小林さんによる以下の松原市民図書館(MARU。architecture)のレビューだ。
記事内で小林さんは、"ここ"と"あそこ"と"そと"という3つの空間が同時に知覚されることで、"ここ"から"あそこ"に移動すると、 "そと"を定点として"ここ"と"あそこ"の関係性が逆転する、といった観察を行う。僕も実際に松原市民図書館に出向いてこの空間を体験してみたが、確かに"ここ"と"あそこ"を"そと"を介して意識化させることで非常に豊かな関係性が生まれていると感じた(僕が行った時は"あそこ"に本を読む親子が居て、より共感がしやすかった。)
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"そと"という「風景」が共有されることで"ここ"から"あそこ"に自分のリアリティを関連づけることができる。自分のリアリティが関連づけられることで、"あそこ"に実際にいる、あるいはいるかもしれない他者のリアリティに接近することができる。
ハイデガーはこの現象を「移し置き」という人間の本質的な在り様として説明する。
"他の人間たちにおける現存在に同行することとしての、他の人間たちの内へ自分を移し置くことができること、このことは人間の現存在に基づいて - 現存在として、常に既に生起してしまっている。というのも、現存在とは他者との共存在を言うのであり、しかもそれは現存在という仕方で、つまり共実存することにおいてだからである。"[1]
すなわち、存在者としての人間(=現存在)そのものは常に他者に「移し置き」を行うことによって自身の存在を成り立たせていて、現存在とは本質的に他者との共存在を意味する、と定義するのである。モナ・リザが恐ろしく見えるのは、その曖昧な輪郭に各個人が己を見出すためと言われたりするように、人間(生き物?)には他者の中に自己を見出だす事で浮かび上がる差異を基に己の存在を確立しようとする、日常生活の中では決して意識されない本能的な習性があるようだ。
さて、松原市民図書館の例に戻ると、ここでは「風景」が窓によって切り取られ、"ここ"と"あそこ"で共有されることで、はじめて"ここ"から"あそこ"への本能的な「移し置き」が意識される、と言えるだろう。そして実際に"あそこ"に行ける方法を建物が提供することで、"ここ"-"あそこ"の反転可能性が示唆され、より"あそこ"にいる他者のリアリティに接近しやすくなる。このような建物の中における「風景」の在り様を、僕は自己のリアリティと他者のリアリティを架橋する「基点」と呼んでみたいのである。
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「基点」は後述の通り、必ずしも風景としてのみ立ち現れるわけではなく、様々な仕組みと様々な在り様を持っているのではないかと感じる。後日訪れた太田市美術館・図書館は、風景によって意識化された"ここ"と"あそこ"の反転可能な関係性の宝庫だと感じた。
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ここでは深入りしないが、太田市美術館・図書館の場合は建物内を外周に展開されるLIMBと呼ばれる回遊性のスロープで移動できるようになっており、それに伴い「基点」である風景そのものも一意に定まらないため、"ここ"と"あそこ"の関係性を常に感じながらも、風景そのものも常に切り替わるという、非常に豊かで複雑な構成を持っていると感じる。西倉さんが似たような事をより詳細にレビューされているため、ぜひ以下リンクを参照していただきたい。
2. "ここ"と"あそこ"の境界としての縁側-無鄰菴と京都市京セラ美術館
さて、"ここ"と"あそこ"の反転可能な関係性の作り方として、「縁側」や「建物の縁」が極めて効果的に作用する場合もある。これは窓で風景を切り取り、それを共有することで"ここ"-"あそこ"の関係性を作る先程の場合と異なり、縁側そのものが"ここ"-"あそこ"の境界として機能している場合を言う。例えば京都の無鄰菴などがこのよい例だろう。
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