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明日の天気は僕に聞かない
明日の天気を聞いてくる息子に、晴れだよと答えた。ホントかよ、なにを適当なことを言っているんだ。天気予報見せてくれ。と言って彼は僕のスマホを取り上げた。
この伝わらなさはなんだ?
僕が知っていること、知覚していることを伝えた。
まあ明日は晴れるだろう。
だけどそれをそのまま言っても理解されない。
明日の天気予報をスマホで確認することに別に問題はない。しかしそれでいいのか?そうやってなんでもスマホからデータを得ようとする態度。そこから得たデーターでもって何かを判断して動く。そうなるともう思考も行動もスマホに動かされていることになっているではないか。
だからこう言ってやった。
おまえの野生の勘はどこにいったんだ?そうやって文明の利器に頼ってるから知覚が鈍るんだ。おまえはもう分かっているはずだ。
は?何言ってんだ。わかるはずねーだろ。じゃあ明後日の天気はなんだよ。
もちろん天気予報を見るのはデータを得るための一つの手段だ。それを使うのは構わない。天気予報を判断材料の一つとして使っているという自覚を持った上で見るのであればよい。ただ、明日の天気はスマホで分かるからスマホを見るという行動が特に意識することもなくほとんど自動的な行動パターンになっているのであればもうそれはスマホに動かされている。
そもそも自分が見て知覚して分かっていることがあったはずだろう。外部からのデータ、誰か他の人の観察に頼って、自分の知覚を使わないと、自分の能力は失われてさらに外部からのデータに依存するようになる。
おまえにはわかってることがあるはず。
明日の天気が決まるのは明日だ。