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第8章 山口誠一の懸念
第8章 山口誠一の懸念
スロットホールの雑然とした喧騒の中、山口誠一は一人、端の椅子に座って冷めかけたコーヒーを啜っていた。ホール中に響くメダルの落ちる音、リールの回転音、そして大当たりを引いたときの華やかなサウンド。それらは山口にとって、聞き慣れた日常の音だったが、今日の彼の心は少しだけ落ち着かない。
その視線の先にいるのは、翔太だった。初めての大当たりを引き、その余韻に浸りながら次々とスロットに挑む若者。その無邪気な姿に微笑みを浮かべつつも、山口の心には不安が渦巻いていた。
初心者の熱気と危うさ
「やった!もう一回だ!」翔太の明るい声が聞こえる。彼の前のスロット台はメダルで溢れ、ホールの中でも目立つ存在になっていた。翔太の熱気は周囲の客にも影響を与えたのか、彼の隣に新たな客が腰を下ろし、同じ台に挑み始めていた。
山口はその様子を黙って見つめていた。若さ特有の勢いと、自信に満ちた笑顔。だがその裏には、危うさが隠れていると彼は感じていた。
「若いってのはいいもんだな。」山口は小さく呟いた。自分もかつては、翔太のように勝利に浮かれ、目の前の成功だけに夢中になっていた頃があった。しかし、スロットの世界がどれほど残酷で計り知れないものかを知るのには、そう時間はかからなかった。
勝利が生む錯覚
「翔太、ちょっと休憩しないか?」山口は声をかけたが、翔太は顔を上げず、リールを見つめたままだった。
「今、流れが来てるんです!誠一さんもわかるでしょう?」翔太の声には、わずかに高揚感が混じっていた。その瞳には、自分の手で運命を変えられるという信念が宿っているようだった。
「流れ、ね。」山口は小さくため息をつきながら、タバコに火をつけた。「その流れとやらが、いつまでも続くと思うなよ。」彼の言葉には警告の色が濃かったが、翔太にはその重みが伝わらなかった。
翔太は勝利の快感に包まれていた。それは人間を容易に錯覚へと導く。自分には特別な才能がある、運命は自分に味方している、そして負けることなどあり得ない――。山口もかつてその罠に嵌まり、苦い経験をしたことを思い出していた。
山口誠一の過去
山口は翔太を見つめながら、若かりし頃の自分を思い出していた。初めて大当たりを引いたときのあの感覚。胸が高鳴り、全てが自分の思い通りになるように感じられた。しかし、その甘美な錯覚は長くは続かなかった。連勝が続いた後に訪れた、想像を絶する敗北。山口はそのとき、スロットがいかに人の心を掴み、そして裏切るかを知った。
「翔太もいつか、その現実に直面するだろうな。」山口は心の中でそう呟いた。彼自身も、最初は忠告を受けても耳を傾けなかった。それを思うと、翔太に同じ轍を踏むなとは簡単には言えない。しかし、山口には翔太を見捨てることもできなかった。
翔太への助言
山口はタバコを一服吸い込み、翔太に向けて静かに言った。「翔太、いいか。スロットはただ運が良ければ勝てるものじゃない。冷静さを失ったら、いくら運があっても意味がない。」
翔太は一瞬手を止め、山口を見つめた。「でも、誠一さんだって、この台で勝ったことあるんですよね?そのとき、運を信じなかったんですか?」
「運を信じるなとは言わない。ただ、運だけに頼るなと言っているんだ。」山口の声は低く、だが力強かった。「スロットで勝つためには、台の特徴や流れを見極める目、そして何よりも引き際を見失わないことだ。」
胸に抱く不安と期待
翔太は少しだけ考えるような表情を浮かべたが、すぐにまたリールに目を向けた。その姿を見て、山口は一抹の不安を感じながらも、どこかで期待している自分がいることにも気づいていた。
「翔太、お前はまだ若い。だからこそ、失敗してもやり直せる。その経験をどう生かすかが大事だ。」山口はそう思いながら、再び冷めたコーヒーを飲み干した。
ホールの喧騒の中で、翔太のリールが再び回り始めた。その音が響くたび、山口の心には期待と不安が交錯していった。翔太がこの世界でどのように成長していくのか。その答えを見届ける日が来ることを、山口は静かに願っていた。