古の旧制高等学校・大学予科その1
旧制高等学校・大学予科とは
旧制高等学校・大学予科という、男子のみ入学が許された高等教育機関が昭和20年代までありました。(戦後の一時期のみ女子の旧制高等学校も存在しました)
今の高校3年生から大学2年生にあたる18才から20才までの3年間を、寮での共同生活を通じて外国語の修得を中心に教育を受け、大学進学に備えました。
医学部などの人気のある学部以外は、無試験で全国の旧制大学への進学が保証されていて、旧制高等学校に入学する事が旧制大学へ入学できる事とイコールの関係だったので、旧制中学校から旧制高等学校への受験が進学希望者の最大の関門でした。
大学予科は、旧制高等学校からの入学者が多く見込めない北海道帝国大学(現在の北海道大学)と東京商科大学(現在の一橋大学)や、旧制私立大学に置かれ、基本的には旧制高等学校に準じた外国語の修得を中心とした教育を行なっていました。
旧制高等学校がなぜ出来たか?
旧制高等学校が必要になった原因は、東京大学の成り立ちにあります。
漢学や国学という中国や日本古来の学問の教育を行なっていた部門と、洋学という開国後に入ってきた西洋の学問の教育を行なっていた部門が明治維新前後に並立してありました。
維新後に、西洋の学問を推進する方針になり、洋学の部門が独立して東京大学となります。欧米から教育人材を招聘して、日本人に教育させました。基本はその教師の母国語である英語やフランス語、ドイツ語での講義です。東京大学での講義を受けられる様に、外国語を修得する準備教育として必要になったのが予備門などの名称の、大学予科と呼ばれた主に外国語を教育する部門です。
この東京大学の大学予科部門は、維新後の文教政策の基本となった大学・中学・小学の3つのレベルでそれぞれ教育を行なっていく方針からすると、継子的な存在でした。
小学校は寺小屋を基盤に日本語での教育の目途が立ちましたが、中学校と大学校については試行錯誤する事になります。
中学校については、多くは維新前から藩が置いていた藩校を基盤にして、中学校に看板をかけ替えましたが、そのレベルが藩によってバラバラだった為に、国の求める中等教育のレベルには程遠く、スクラップ&ビルドを繰り返していました。最大の問題が、外国語を教える人材の不足です。
大学校については本来は日本語で教育する事を想定していたのですが、そもそも西洋式の高等教育を教えられる人材が国内にほぼいない事から構想が頓挫して、変則の形で造られたのが東京大学です。日本語での教育が主体であった中学校との間に外国語の修得の点で断絶がありました。それこそが最大の問題でした。その断絶を補う為に、大学予科部門が置かれ、そこに中学校を卒業した生徒を入学させて、外国語を修得する準備教育を行なったのです。
ただ、全国の中学校の卒業生が全国に1つの大学予科に集中し、ばらばらなレベルに対応する為に、予科に入るための予科やその予備校があったりと、色々と問題がありました。結果的に、中学校自体を高等と尋常の2つに分けて、それまでの中学校を尋常中学校に、大学予科を高等中学校に改め、高等中学校については全国に分散して置かれる事になります。この高等中学校が後年名前を高等学校に改めたのが、所謂旧制高等学校です。理念は後付けで、東京大学を存立させるために必要だったから出来た高等教育機関だったのです。
旧制高等学校の教育とは
こうして、必要に迫られて出来た旧制高等学校ですが、その教育は、寮での共同生活と外国語修得を特徴としています。
寮は基本的に自治寮で、運営は学生に任されていて、そこではセルフマネジメントの能力を身に着ける事を求められました。結構滅茶苦茶な行動(ストームで検索すると出てきます)をやっていた事が、実際の卒業生から語られていますが、同時に、読書や討論を通じた様々な自学自習の経験も語られていて、大学の専門教育に入る前の人格形成の場に、寮における影の教育が働いた事が分かります。
外国語修得も、文学書ばかりでなく哲学書などの専門書も読まれ、語学としての外国語修得以上の幅広い教養がそこで育まれていました。もちろん専門教育への準備教育も別にありましたが、教育における語学の占める割合が高く、それが文理の垣根を越えた教養教育の場を自然と提供していました。
この2つの教育を基礎として、旧制高等学校独特の日本式の教養教育が展開していたのです。
当時の18才人口のわずか1パーセントの人しか行けなかった旧制高等学校ですが、そこを突破した青年達には、日本式のリベラルアーツの場が提供されていたのです。この事実を私たちは知っておくべきだと思います。
次回は、