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2.大学職員採用マイナス3年目の2

前回は


仕事について


 4月になり、正規の職員としての勤務が始まりました。
 慣れないながらも、放送機材やパソコンの使い方を覚えて、徐々に仕事も板についてきました。当時は日曜日のみが完全休日で、土曜日は隔週で半日勤務という時代でした。俗にいう半ドンの時代です。残業は基本的になかったので、勤務時間に関しては楽な方だったと思います。給与も、バブルに沸いていた一般企業の初任給と比べれば遥かに安いものでしたが、家賃が当時都下で4万円の部屋に住んでいたので、それを賄うには十分なものでした。
 映像教材の作成だけではなく、当時は印刷教材への需要も多く、その為にオフセット印刷の技術を覚え、印刷工場ばりに製本する事も身に付けることが出来ました。
 書物の製本過程を経験できた事は、その後に書物の発行までに、どれだけの大変さがあるかを認識する事につながり、人生において書物への拘りを強くする機会になりました。
 どの仕事も、初めて体験することだらけで、大変ではありましたが、その後の自分の強みになる経験が出来た、良い機会になりました。

大学院入試について

 忙しい昼間の仕事から帰ると、大学院入試に向けての勉強も欠かせません。先ずは、英語の勉強が必須でしたが、大学入試の長文読解の参考書を基本として勉強するのが関の山で、当時は多くの大学で過去問の公開が閲覧のみなどといった形で限定されていましたので、まず手に入れるのが大変でした。また、公開されていた大学の過去問でも、直接出向いて閲覧請求する必要があり、現代と比べるとかなり不利な環境の下での院試対策でした。従って、受験対象校も関東の大学に絞り、東京大学、慶応義塾大学、早稲田大学の3校の願書と過去問を取り揃え、比較検討してみました。
 東京大学は、指導教官の推薦書や研究概要書の作成量がかなり膨大で(それだけ願書の提出段階で選抜されていたのかも?)、入試問題も量が多く、志願する気が失せ、慶応義塾大学も東京大学よりは易しそうだったものの、指導教員の推薦が必須で、消去法で、指導教員の推薦が不要だった早稲田大学大学院文学研究科と教育学研究科を志望校に決め、春の試験に向けて勤務後は試験勉強を続けました。
 秋に腕試しで受けた某大学の大学院試験は予想外に難しく、滑り止めのつもりが落ちてしまい、春まで重苦しい精神状態で過ごすことになります。
 早稲田大学の願書を出す頃には、すっかり弱気になっていて、落ちたときの滑り止めとして埼玉大学大学院の願書も一応準備して、本番に向かいます。
 先に文学研究科の試験がありましたが、やはり英語が難しかったおかげで不合格となり、教育学研究科に望みを繋ぎました。そして、教育学研究科の試験では、英語は予想外に解け、専門もデュルケームに関する問題に満足いける回答ができたおかげで、一次合格しました。2日後の面接に備え、今の妻である彼女と練習を重ねた甲斐もあり、二次試験も無難にこなし、最終合格を勝ち取りました。最終倍率は6倍くらいだったみたいなので、よく合格出来たものだと、自分の強運に感謝しました。

 仕事と受験の両立という大変な1年でしたが、大学職員としての1年での人々との出会いは、大学時代以上にダイナミズムに富んだもので、その後の仕事の選択に影響を与える事になる、重大な人生の岐路となりました。
 そして、大学職員を退職して、大学院生となるのですが、その頃の話は以下でまとめています。

 ここまでは、大学職員(正規)になるまでの前段階のお話でした。
 次回から、本編とも言える大学職員としての20年間のお話を進めていきたいと思います。





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たこま
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