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言葉という侵入者

 「言葉」は一体何なのでしょう。これまでと少し異なる角度から。


ウィルス?

 今回言いたいことは、ウィリアム・バロウズに倣って言うならば「言語は宇宙からのウィルスである」といえるのではないかということです。
 普段、わたしたちは、言葉は単なる偶発的なツールに過ぎず、その奥底にある感情や衝動、あるいは美意識やセンス、さらには真理や倫理といったもののほうが本質的であると何となく考えがちです。実際の所、それはある意味で正しい面もあるのですが、まず基本的な所から押えておくこととしますと、言葉は現実を彫り上げます。何を言ってんだという話になりますが、例えば、蝶という昆虫があります。モノとしてのそれは「蝶」という言葉が生まれる前から厳然と存在していたのは間違いないのですが、「蝶」とそれと似たもの(蛾とか)とを区別するのは、人間の恣意的なものです。実際に、フランス語では、蛾も蝶も同じpapillon(パピヨン)という語で表します。つまり、どういう差異に着目し、どのように現実(モノ)を区別するかが言語の本質です。連続した現実の次元に切れ目を入れ、差異によって彫り上げる過程は、ラカンでいう「モノの殺害」という少々物騒な段階に相当します。
 さらにいえば、同じ蝶でも、それぞれの差異によってアゲハチョウ、モンシロチョウ、ベニシジミなどと名前がついているわけですが、これも、それぞれの言葉の間には「何が異なるか」の差異に着目した割れ目が走っていることが分かるかと思います。さらにアゲハチョウもナミアゲハ、アオスジアゲハ、ジャコウアゲハ……と切れ目を入れていくことができますし、同じナミアゲハにも、さらに細かい差異に着目して区別していくことも可能です(あるナミアゲハに「アゲ子」とか「アゲ太郎」とか?固有名詞をつけることだって当然できますね)。理論上、切れ目の入れ方は無限大です。もっといってしまえば、あるナミアゲハの個体がいるとして、これがそれ以上区別できない最小単位かというと、もちろん触覚や羽や脚に分類できますし、極論すると分子とか原子にまで行ってしまうわけです。このあたりの話は、日本では虹が7色といわれますが、国や地域によって5色だったり13色だったりするという理屈とおおよそ同じようなものであると考えてよいと思います。日本などではナミアゲハやらアオスジアゲハやらをそれぞれ別々のものとしてみますが、別の地域ではもしかしたら「え?全部同じ蝶じゃん」と考えているかもしれません。
 わたしたちが、道を歩いていてヘビに出くわしたとしましょう。ほとんどの人が「うわ!ヘビだ!」と心の中で言うと思います。この時、ヘビの中の差異に関心の深い人(例えばヘビの研究者とか)であれば「うわ!アオダイショウだ!」と思うわけです。あるいは、音楽の話になりますが、わたしたちはクラブミュージックというものに時々触れることがあるかと思います。その差異に関心のないお年寄りからしたらどれも「うわー!やかましいな!何かただ騒がしいだけの音楽じゃ!」と思うに過ぎず、ハウスもテクノもデジタルクンビアもどれも大して変わりないです。わたしたちがノイズをどれも同じ「ノイズ」として片付けるのと同じですかね。あるいは、例えば、辺り一面の雪景色。それはどれこれもただひたすら真っ白な雪ですが、雪が生活に大きく影響し、その差異に関心の深い民族(イヌイットとか?)にとっては、同じ雪でも全然異なったものとして感じられることでしょう。逆に言えば、ある人工知能が世の中をみたときに、わたしたちの世界の様々な音の行き交いに特に価値を見出さない場合はどれも「ノイズ」として聴こえるでしょうし、食べ物や生き物、あらゆる有機体の差異が特に重要でなければ、それらは一面の「真っ白な雪景色」程度でしかないでしょう。
 いずれにせよ、無限の切れ目の入れ方(彫り上げ方)がある連続に切れ目を入れ、わたしたちは「言葉」というものにその差異を落とし込み、世界を認識しているということができます。このあたりの言語学の考え方は、何だかんだいってその後の思想や諸科学に甚大な影響を与えており、かつ、今のところこれが覆されるような反証は基本的には出てきていないと思います。一応、自然科学においてもこの考え方は継承され、何か客観的で超越的な真理を計測しているというよりは、むしろ「どういう差異(どういう価値)に着目して実験・観察しているか」による結果にすぎないというのが1つのコンセンサスとなっていると思います。バロウズに始まったこの項の結語としては、同じビート詩人であるアレン・ギンズバーグの「真実などなく、ただ異なったものの見方があるだけだ」という言葉がしっくりくるかと思われます。

改めて不思議な言葉

 言葉は、幼い頃に周囲の大人たちの会話などから見よう見まねで言語能力を身につけ、様々な発音や意味などを習得していくものです。それ自体まあ間違いではないのですが、言語学者ノーム・チョムスキーによれば、そもそも言語能力は習得するものではなく、生得的に身についているものだということです。もちろん、日本語や英語といった個別具体的な言語をすでに身につけているというわけではなく、人間は生まれながらにして「言語を話そうとする/理解しようとする」能力が備わっており、そこに具体的な言語(日本語、英語など)が提供され、具体的な言語活動が展開していくというわけです。言語能力の備わったハードウェアに、具体的な言語のソフトがインストールされると考えて差支えないかと思います。だからこそ、アメリカの赤ちゃんは、わたしたち日本人のように英語の授業を受けなくても、勝手に英語を覚えますし、大人もそれをことさら意識して教え込むわけでもなく、子どもは勝手に「アー」とか「ウー」とか言いながら言葉を話そうとし始めるわけです。
 このような、人間に生得的であるとされる言語能力は、あるいはそれが扱う言語というものは、まるでウィルスのような外からの侵入者であるというのは言い過ぎでしょうか。言語がどのように発達するか人工的に実験した言語学者サイモン・カービーによれば、言語は、まるで固有の生命であるかのように自律的なシステムとして進化しているとのことです。「言語自体が、進化しようとする強い方向性を持っている。それは後世に伝えられることを望み、そのための方法を見つけ出す。われわれはその宿主なのだ」(カービー)。わたしたちが使う諸言語も、それ特有のしかたで新しい語が生まれ、意味や使い方が長い年月をかけて微妙に変わって行き、重複するものや用を足さなくなったものは廃れ、新陳代謝を繰り返しています。
 このような観点に立てば、ある情動や思いを表現したいがための、絵筆や楽器のようなツールにすぎないと思っていた言葉は、むしろわたしたちの情動や思いを作り上げ、世界のみえ方を体系づけている主体であったという感じがしなくもないです。
 しかも、諸々の象徴や特殊な記号はさておき、例えば英語であれば26文字、ロシア語であれば33文字のみの組合せだけで、神話、量子から、隣の家の猫、今夜のご飯のおかずまで、森羅万象を表象してしまいます。日本語は、文字という観点ではなかなか例外的ですが(漢字がべらぼうに多いので)、音(アイウエオ……)は、せいぜい80程度です。弁別可能な音素(その言語において同じと見なされる音の集まり)は、どのような言語でもやはりせいぜい80とか100とかそこらだそうです。日本語では同じ「ア」の音でも、中国語ではいくつもの「ア」がありますし、日本語で l と r の音を区別しないのと同様に、ロシア語では w と v の音を区別しません。そのように、諸言語において音素の差異をどこに見出すかは様々ですが、理論的には無限通りの分け方がある自然な音の中に切れ目を入れるしかたが、せいぜい100かそこらであり、それの組合せによって億とも兆ともつかぬ森羅万象を表現することができてしまうのはまことに驚異です。

追放された者

 このように言語あるいは言語能力というもののある種の特異性をみてきたわけですが、人類のその能力の獲得をアダムとイヴの堕落と同定することも可能であることは、以前の記事(こちら)でも述べたとおりです。
 さて、人間固有の能力とされ、その獲得によりありのままの自然から疎外され、人間がノスタルジーを夢見て彷徨うこととなった要因たる言語能力について(「何のこっちゃ!」と思われた方は、以前の記事(こちら)をご一読いただければ幸いです)、お馴染みのラカンの精神分析の考え方から考えてみます。
 まず、人は赤ん坊としてこの世に生まれてからある時を境として、言語の片鱗に触れ、言語みたいなもののやり取りに参加します(初期のやり取りは、おもに両親であることが多いと思います)。象徴的秩序といわれるものへの参入です。しかし、実は赤ん坊がその言葉の世界に参加する前から、その赤ん坊は様々な語りの中にさらされています。赤ん坊が生まれる前から、その赤ん坊についての名前をどうしようかと両親は語り合い、どんな子になるだろうかと楽しみにし……という他者の(言語的な)欲望がすでにその赤ん坊を象徴的秩序の一定の場に位置づけ、完全に包囲しています。それだけでなく、そもそも、その赤ん坊がどのような家系で、どのような社会に位置付けられ、どのような歴史の中に産み落とされるかという、人間たちが紡ぎあげてきた「膨大な語り」はすでに圧倒的な情報量と力でもって赤ん坊を待ち受けています。ラカンがいうように、言語は欲望を生み出し(動物には本能的な欲求こそあれど、欲望はありません。動物は欲求が満たされればとりあえず満足しますが、人間はなおも服を欲しがったり、出世を夢見たりします)、欲望はまた言語的なものであるわけですが、すでに他者の次元で様々な欲望が赤ん坊を包囲しており、赤ん坊はそれから逃れる手立てはありません。何とも暗澹たる気持ちになるかもしれませんが、わたしたち人間がどんなに頑張っても社会そのものから決して逃れることができず、人づき合いをし、社交辞令を言い、朝仕事のために起き、社会のルールを守り……というのとはそれとほぼ同根のものだと思います。しかし、ロシアのことわざにもあるとおり「木は根っこに支えられ、人は社会に支えられる」わけです。わたしたちを支えてくれるからこそ、わたしたちもそれを支えるわけですね!
 そういうわけで、人間が言語と出会うことは、圧倒的な力を持った外来性のものとの出会いということができます。ある程度満ち足りた存在であったはずの赤ん坊は、象徴的秩序に主体(語る者)として参加することにより、欲望に巻き込まれて生きることとなり、同時に原初的な享楽を喪失しなければならないのですが、この「主体として参加するか否か」の選択は、赤ん坊の全く勝つ見込みがない戦いを他者(外来性の侵入者)から挑まれているようなものです(ブルース・フィンク『後期ラカン入門』参照)。かくして、外からの侵入者たる言語によって、わたしたちは享楽へのノスタルジーを求めて彷徨う荒野の追放者となったわけです。
 もっといえば、言語は、あるいは象徴的なものは、まるでウィルスのように、人間の意識とは関係なく作動しさえします。それがフロイトのいう「無意識」と関係し、さらに「反復強迫」を司るメカニズムとなるというわけです。この点については、以前の記事(こちら)で触れておりますのでお時間がございましたらどうぞ。

 ということで、「言語は宇宙からのウィルスである」というバロウズの言明は実に正鵠を得たものであります。最後までお読みいただきありがとうございました。