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書くラジオ「僕はこの世界に悪者がいる物語を見ている」

僕は大学からの友人とラジオを録っている。そこで、僕は現状の自分への不満から資本主義のせいにして、資本主義を変えようと話していた。なぜこうも、自らの感情と向きわず、自分の不満を外部の要因のせいにするのかを考えていた。

そんな時に、最近読んでいる、國分功一郎の『目的への抵抗』という本に興味深いことが書いていた。

この本は、目的は絶対に必要であるけれど、目的のためだけに生きるのではなく、その目的の過程で逸脱したり、脇道に逸れたり、目的を超えてしまうような遊びが大切であることが書かれた本である。僕が興味を持った箇所は、この主題とは少し違った一節である。目的なしに人は生きれるのか?という疑問の解決が目的で手に取った本で全然違う発見があるとは、この本の伝えたかったことを体感して不思議な気持ちになった。そう思えば、本を読む時、求めていた所じゃない所で興味を持ったりして、それが本を読む面白さの1つだったなと思い出した。

その一節が以下である。

「戦略」という言葉を使ったからと言って、別にどこかに悪者がいて人々を操作してると考えてはなりません。社会の中で作動する戦力というのは、必ずしも誰かのものでもなければ、誰かによって立案されたものでもありません。ボードリヤールによって描き出された記号消費のゲームにしても、そのようなゲームを誰かが構想したわけではないのです。社会で作動している戦略というのは、ほとんどの場合ーー非人称的です。つまり背後に主体があるわけではない。

p156

僕はなぜ自分が資本主義など(この時の変えようとするものは主義でも、社会でも、会社でも、家族でも、他人でも、過去でも、容姿でも、経歴でもいい)を変えようとするのかと考えていたが、これを読んで、もしかしたら僕は、悪者がいると思っていたのかも知れないと思った。あいつが悪い!と明確に思ってるわけじゃないが、もっとこう、無意識的に、この世界やこの時代は「誰か」によって動かされてると漠然と感じていたんじゃないかと思う。だから、自分に起こる様々な出来事も、その「誰か」によって生じていると思えたのだと思う。その出来事が自分にとって嫌な事や理不尽な事だったら、その「誰か」のせいに出来たんだと思う。

非人称という言葉は僕に強く刺さった。この世界が「誰か」によって動いていると思うのは、あまりにも人間中心的な考えで自分でも驚いた。人間中心といか、1人の人間中心に考え過ぎだなと思った。この世界が「誰か」によって動いていると思うのは、この世界が「誰か」の力で動くと思っているからだ。1人の人間の力を過信し過ぎてるなと思った。自分の力にある種の幻想を抱いているんだと思った。その幻想は、自然から離れてしまったから思うのかもしれない、今、僕の目の前に、ペットボトルに入った水がある、僕はその水を今すぐにでも飲める、けど、そうではなく、今、水を口に含むためにとてつもない苦労が必要だったら、この世界が人間の力で動いていると思えたのだろうか。僕たちは他の生物に襲われる事なく、ある程度の自然環境の中でも暮らせるようになってしまった、そして、その辺の若者が、世界が「誰か」によって動かされてると思えるくらいには安定した。それは、物語、フィクションを享受できるようになったということだ。それは生きるか死ぬかの瀬戸際にいる時よりかは豊かになったのかもしれない。そんな中、僕はその物語の豊かさやありがたさを忘れていると思った。さらにはその物語が現実であるかと錯覚するまでに至った。それは現実と物語の境界線がなくなることで、物語に捉われることである。だから、その物語の悪役を見つけ出そうと声を荒げ続けるのである。そもそも悪役などいなかったことなど知らないままに。

僕は非人称な世界から離れ、都合の良い物語の中にいて、そこから話していた。そんなことに気がついたのである。けど、物語を破棄するのもまた違うとは思った。それは危ないから使わないって話だと思う。そうじゃなく、絶対に物語通りにはならない、完全に思いのままに動かせないことを理解した上で、物語の享受して良いと思った。個人的に言えば、この世界が「誰か」という悪者に動かされているという物語より、この世界は「自分」によって動かせると思った方が、物語によって誰かのせいにしたり、漠然とした悩みに駆られないんじゃないかと思った。

どうせ物語なのだから、好きに作り変えればいいと思った。その物語は自らに活力や喜びを与える、それはもしかすると、希望なのかもしれない。すると、希望とは今の話だとフィクションということになる。希望がフィクションであって存在しないことは絶望なのだろうか、いや、ある希望が現実に絶対的に存在している方が絶望じゃないかと今、書きながら思った。

僕は物語を想像できる状態に感謝し、それが現実とは異なることを自覚しながら、でも物語を想像することをやめるわけでもなく生きてみたいと思った。物語と共に生きること、それは生きる上での贅沢である。

このような話の発端となるラジオ、是非聴いてください!

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