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コロナ禍の一年を振り返って、考えたこと。

「新型コロナウイルス」という言葉を耳にするようになって、もう一年以上経つのですね。
感染が広がり始めた頃は、「春になれば」。
4月の緊急事態宣言のときは、「今を乗り越えたら」。
夏の第2派のころは暑くて家から出る気がせず、なんとなくやり過ごすことができました。
しかし、昨年の秋から今まだ続く第3波は、じわじわと身体とこころに辛さが広がっていきました。
なぜ辛いのか、何が辛いのか。
去年の春から振り返って、考えてみたいと思います。

①子供たちの努力が形にならなかった。

新型コロナウイルスの影響を最初に強く感じたのは、去年の春でした。

当時、中1の次女は、合唱コンクールのピアノ伴奏をすることになっていました。
次女には難しい曲で、泣きながら、プレッシャーで過呼吸になりながら、何度も練習して、少しずつ弾けるようになっていきました。
同じ頃、小学生の時から仲良しだった友達との関係が変化していき、女子同士の付き合い方にも悩んでいました。
沈んだ表情で学校へ行く日が続いていましたが、自分の伴奏に合わせて初めてクラス全員で練習したとき、「みんなの歌声がひとつになって嬉しかった!」と弾けるような笑顔で帰ってきました。
ああ、良かった。
合唱コンクールで、みんなとの繋がりを強く感じて欲しい。そして、良い形で中学1年生を終わりにして欲しい。
そう願っていましたが、合唱コンクールを数日後に控えた2月末、学校は一斉休校に。
次女とわたしは、一緒になってわんわん泣きました。
本当に悔しい。
だけど良い経験ができたんだよ。
難しい曲にチャレンジして、弾けるようになった。
みんなの歌声に合わせて伴奏できた。
歌声がひとつになって嬉しかったんでしょう?
それが感じられて、本当に良かった。
そう伝えることしか出来なかったけど、次女もだんだんと泣き止んでいきました。

高1の長女もその後、大切な行事が中止になりました。
長女は高校でオーケストラ部に入っています。
パートはバイオリンで、楽器経験者ですが、そんなに上手くない。
未経験者の同級生と一緒に、一曲一曲練習を重ね、顧問の先生や先輩たちに支えられて上達していきました。
夏休みに入ると、大会に向けて有名なオーケストラの曲を練習するようになり、大変だと言いながらも楽しそうに充実した毎日を送っていました。
大会では良い成績を収め、みんなで大喜び。このメンバーで、最後の集大成となる春の定期演奏会に向けて頑張っていました。
それが、中止に。
その頃は緊急事態宣言が出ていて、すべての活動が自粛を強いられていました。
ある程度、覚悟していた。今は、仕方ない。
大好きな先輩はこれで引退だけど、たくさん素敵な思い出を作ることが出来た。
定期演奏会は、また来年がんばろう。
悲しくても、この頃は、まだそうやって次に望みをつなぐことができました。

②自分の好きなことをしても良いのだろうか。

わたしは、自然の中で過ごすのが好きです。
いちばん好きなのは、山の中を歩いて滝へいくこと。
そして、その土地の美味しいものを食べ、温泉に入ったりして過ごすこと。

しかし、自然豊かなところは高齢化率の高いところが多い。
そして、わたしが住んでいるところは感染者が多い。
家族もわたしも出かける際はマスクをして、大人数で飲食することは控えています。
でも、ふだん通り仕事や学校に行くし、通勤や通学、買い物など、人との接触はある程度避けられません。
無症状で感染している可能性はゼロではない。
そういうところに住んでいるわたしが、出かけていいのだろうか。

もちろん、自然の中は密ではありません。混んだ夕方のスーパーで買い物するより、ずっと安全そうです。
高尾山のように人気のある場所は人が多いけど、少し外れれば人の少ない素敵なところがたくさんある。
そんな場所を、わたしはいくつか知っています。そこへ行けばいい。
でも、そうじゃないんです。

わたしが自然を楽しめるのは、山道など整備してくれる人たちがいてくれるから。
そのことに気付いたとき、自然をただ享受するだけでいいのか、と考えました。
それ以来、その土地へ行ったら、そこで美味しいものを食べ、お土産を買って、少しでも還元しよう、と決めました。
でも、今はそれをして良いのか分からない。
いや、もしかしたら、観光地が打撃を受けている今こそ、出かけてお金を落とすことが求められているのかもしれない。大きな声では言えないけれど。
または、そんなこと気にせず、自然だけを楽しみめばいいのかもしれない。
でも、どうしても、気持ちよく行く気になれません。

③子供たちの一生に一度が奪われていく。

自分の好きなことができなくなっているのは、ほかにも理由があります。
子供たちの現状を考えると、どうしてもそんな気分になれないのです。
去年の春、「今を乗り越えたら」と思っていましたが、それは甘い考えでした。

次女の中学校は、今年度、体育祭、文化祭、校外学習、合唱コンクールなど、学校生活を彩るイベントがすべて中止になりました。
長女の高校も体育祭は中止、文化祭はリモート。
部活は思うように練習できず、新しく入部した後輩の指導もままならず、なかなか上達していかないことに悔しがっていました。
年に何度か大会があり、そのたびに曲を決めて練習しますが、ようやく形になったころに大会が中止になる、そんなことも経験しました。
そして第3波の影響で、修学旅行が中止。
春の定期演奏会も、直前までどうなるか分かりません。

子供たちの今が、一生に一度の経験が、どんどん奪われていく。 
体育祭などの学校行事が、部活の大会が、修学旅行が、中止になっても「コロナだから仕方ない」で片付けられてしまう。
そう思うと、自分の好きなことなんてちっぽけです。
わたしが好きなことは、来年でも再来年でも出来る。
でも、子供たちの今は、来年や再来年に繰り越すことはできない。
それが悔しくて悲しくて、無力感に苛まれました。

④わたしの「不要不急」と、まわりの「不要不急じゃない」が、わたしを苦しめる。

未来を創っていく子供たちと、その子を育てているわたし。
わたしにとって大切なのは、自分が好きなことをする今ではなく、子供たちが幸せになる未来です。
なのに、子供たちは、今しかできない経験をどんどん奪われたまま、大人になっていく。
コロナウイルスは、人から人へ感染していきます。人が動き、誰かと行動し、語り合い、ときには飲食し、そうやって感染が広がっていく。
感染者の年代別を見ると、どうしても大人が多い。

感染が全国に広がり、第3波への警戒が叫ばれた昨年末、それでも遊びにいく人、遠くに出かける人は、わたしのまわりにもいました。
SNSを見ていると、楽しげな写真や投稿で溢れています。
人が動かなければ、感染は広がらないのに。
第1波で、みんな、それを学んだはずなのに。
今を享受する大人たちの行動が、これから大人になっていく子供たちの今を奪っている。
どうして子供たちのことを考えてくれないのか。

テレビでは、コロナ感染者の急激な増加で医療体制が逼迫している様子を報道しています。
医療崩壊は何が何でも防ぎたい。
そのためには、なるべく感染しないよう気を付けて過ごすこと。
自分のために、家族のために、医療現場で働く人たちのために。
日常の生活が送れることに感謝して、出かけたり、みんなで集まったりすることは、やめよう。「不要不急」な行動は、控えよう。

一方で、テレビでは観光地や飲食業界の窮状も報道しています。
それを見ていると、感染しないために行動を制限することは、じつは世の中をマイナスにしているのでないか、そんなもやもやした気持ちも生まれてきます。
そもそも、営業しているということは、そこへ行っても大丈夫ですよ、ちゃんと感染予防対策をしていますよ、ということでもあります。
そして、そこを訪れる人たちは、いちおう健康で、気を付けて行動している、ということになっています。
その人たちの行動は、滞っている観光地や飲食業界を救ってるのかもしれない。
それに、さまざまなストレスに晒される今、自分のメンタルを守るために必要なことなのかもしれない。
その人たちにとって、自分たちの行動は、おそらく「不要不急じゃないもの」なのでしょう。

でもそれは、「今」じゃなきゃいけないの?
本当に「不要不急じゃないもの」なの?
自分が無症状の感染者じゃないと、なぜ言い切れるの?
子供たちはさまざまな制限を受けている。そのことをどう思っているの?

こうなってくると、何がなんだか分からなくなってきます。
わたしには黒に思うものが、ほかの人には白になる。オセロの駒のように、人によって、立場によって、白黒入れ替ることだらけです。

わたしが辛いと感じたのは、このことでした。

④今のわたしに必要なことは。

今の時代、多様性を認め、共感し、気持ちに寄り添うことが望まれています。
わたしには子供たちの今と未来が大切なように、人によっては今の自分だったり、恋人と会うことだったり、仕事だったり、ストレス解消だったり、さまざまでしょう。
みんなそれぞれ違うことを、理解しなくてはいけない。
そうやってわたしは、なるべく物分かりのよいふりをして、自分の中に溜まっていく辛さをずっと見ないようにしてきました。
だけど、このままでは、わたしはずっと辛いままです。
そのうち堪えられなくなって、自分と違うものを攻撃するようになるかもしれません。
そんなこと、わたしは望んでいない。

わたしが、今しなくてはならないことは、何か。
それは、自分が今辛いことを認識し、何が辛いのかを知ることでした。
物分かりがよくなくていい、違いを理解しなくていい。
自分はどう思い、どう感じているのか。

わたしは、感染が広まって学校生活が制限され、子供たちの今が奪われていくのが辛い。
好きなことを我慢している自分と、我慢せずに行動し感染を広げている(ように見える)人との差が苦しい。
さまざまな価値観があるのは分かるけど、自分と違うものをそうそう許容できないよ。
そっちだって、わたしの価値観、許容しようとしてないでしょう⁈

この一年、心の底に溜まっていった気持ちの澱。
それらを掬って、次にわたしがしたことは、自分と、自分以外の物事を、なるべく切り離すことでした。
それは排除とは違います。
自分と違う価値観があるんだなと頭の隅っこに置いて、ひとまず距離を取る。
まず、SNSの中から自分の感情を刺激するようなものを取り除きました。
不安を煽るようなテレビやネットの情報は、なるべく見ない。
人が何をして楽しんでいるかより、自分の近くで楽しめそうなものを探してみる。
すると、読書、ジョギング、近所の散歩など、いろいろありました。
自分の手の届く範囲で生活を整えること、身近なところで楽しみを見つけ、気持ちを安定させること。
それだけで、ずいぶん楽になりました。

そうか、辛いときは、いちど身の回りを整理して、手の届く範囲で、わたしの生活を守っていけばいいんだ。
子供たちは一生に一度の経験を奪われながらも、毎日を過ごしています。
不満や不安を抱えているときは話を聞く。
嬉しいことや楽しかったことは一緒に喜ぶ。
その姿を見守って、応援する。
そしてわたしは、今の状況で、出来そうなこと、楽しめることを見つけていく。
まずわたしに必要なのは、そうやって自分自身を整えることでした。

⑤いま、私にできること。


そして気持ちに余裕ができたとき、ようやく自分と違うものに目を向けてもいいかな、と思うようになりました。
多様性を認め、共感し、気持ちに寄り添う。
今まで、わたしはそれをしなくてはと思い、自分の気持ちを抑えながら違いを受け入れ、なんとなく出来ている気がしていました。
でも、長引くコロナ禍でボロボロといろんなものが崩れていきました。
本当は、まったく多様性を認めることも、共感することも、気持ちに寄り添うことも、できていなかった。ようやく、そのことに気付きました。

そんなわたしが、いま、できること。
それは、多様性とは、共感とは、気持ちに寄り添うとは何か。
それをもう一度、考え直すことです。
受け入れようとするだけではなく。
主張するだけでもなく。
自分と違うものに目を向けていくには、どうすればいいか。

第3波が峠を越しつつあり、医療従事者へのワクチンの接種がようやく始まって、コロナ収束に向けて、少しだけ明るい光が見えてきました。
しかし、まだ分からない。
皆が油断して、第4波が来るかもしれない。
それに、たとえコロナが本当に終息しても、わたしたちを揺るがすものは、きっと次から次へと現れてきます。
そんなとき、わたしはどうやって、自分と、自分と違う価値観と、付き合っていくことができるだろうか。

さまざまな書物を読んだり、自分と違う考えのものに触れたり。
そして「辛い」と感じたときは、いちど距離をおいて、またトライする。
何度でも繰り返す必要がありそうです。

まだコロナ禍で混沌としている今、それを鍛えるチャンスにしていきたいです。


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