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第2章 日本橋川の変遷(第3節・4節・5節)

第3節 水運の衰微期(第2期)

1)鉄道の開通と河川交通による都市間輸送

 江戸時代以来、河川交通(以下、水運とする)は都市内だけでなく、都市間の人や物資の輸送の重要な担い手であった。それは、利根川を中心として川沿いに多くの河岸を有し発展していた。明治期に入って鉄道が開通してからも、水運はそれと競合しながら貨物輸送を受け持ちつづけていた。しかしながら、都市間の水運は新しい治水技術*5)の導入により大きな打撃を受けた。河川の両側には高い堤防が築かれ、河岸の機能が失われたためである。その後、水運による都市間輸送は第一次世界大戦(1914〜18年)を境に徐々に衰退していった*6)。

2)東京市街の水運

 前述のように衰退していった都市間輸送の水運に対し、東京市街の水運の機能は、太平洋戦争(1941〜45年)前まで残っていた。明治中期(1890年代)になると、東京市街から各地に向けて、鉄道網が整備されはじめた。市内に設けられた鉄道の始発駅は、水運と関係の深い場所に立地していた(表2-1、図2-9)。これらの駅は、関東一円からの物資が集中し、運河網を利用して市内各地へと分散される集散地となった。

表2-1 鉄道の始発駅と水路との関係

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筆者作成

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図2-9 始発駅と水路の位置関係
筆者作成

 日本橋川は、1903(明治36)年の市区改正計画により1620(元和6)年に埋め立てられた区間が復活し、再び神田川と結ばれた。この工事の前の1895(明治28)年には、掘留河岸に近接して飯田町駅(現JR貨物→執筆当時、現在アイガーデンエア)が開業していた。このように、東京市街の水運は、鉄道と共存しながら物流の動脈としての役割を担っていた。

第4節 水運の転換期(第3期)

1)関東大震災による水運の再認識

 1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災(以下、震災とする)は、水運にとって一つの転換期となった。この地震は、東京市街を焼き尽くしただけでなく、東京の交通網に大きな打撃を与えた。とくに鉄道の受けた被害は大きく、その復興には多くの時間を必要とした。

 被害のひどかった陸上交通に対し、水運は早期に復旧した。これは水路の確保ができればすぐに交通網として機能したからである。こうして援助物資の多くは、水運を利用して市内各地に運搬された。さらに水運は、震災直後に計画された帝都復興計画のための資材運搬に使われた。多くの建築資材(鉄骨・セメント・砂・石材・木材など)のように重量があり、かさばるものを輸送するのに水運は好都合であった。

 震災復興に大いなる貢献を果たした水運であったが、災害に強い近代都市東京を目指した帝都復興計画では、水上交通網の整備より陸上交通網の整備、とりわけ当時新しい交通手段として登場した自動車交通を意識した都市計画がなされていた。昭和通りの建設などもこの一環である。また、これから先の運命を暗示するかのように、水路の埋め立て工事が震災の灰燼処理のためにおこなわれた。日本橋川関係では東堀留川の北半分と西堀留川全部分が、1928(昭和3)年に埋め立てられている。

2)魚河岸の移転

 日本橋北詰で約300年にわたり江戸・東京の台所を賄ってきた魚河岸(日本橋魚市場)は、1923(大正12)年12月1日をもって閉鎖され、築地へ移転された。移転の直接の契機は関東大震災による被災であった。けれども、魚河岸移転の計画は、1889(明治22)年の市区改正計画以来の課題であった。

 移転の理由とは、東京の中心部に位置する日本橋に魚河岸があるのは不衛生で都市美観上好ましくないということであった。しかしながら、この背景には水上交通(水運)から陸上交通へと輸送手段の変更があったといえる。魚河岸の移転先となった築地は臨海部にあり、しかも旧汐留駅(廃駅)に隣接し、魚市場として好ましい場所であった。移転はしたものの、築地新市場の開場は利害関係のもつれから遅れた。1935(昭和10)年になってやっと東京市中央卸売市場築地本場として業務が開始された。

 また、市場の移転は魚河岸だけではなかった。神田佐久間河岸にあった神田青物市場は、1928(昭和3)年にJR秋葉原駅に隣接する場所に移転*7)し、河岸との縁も切れてしまった。

 これまで水路沿いに立地していた市場は、水路から離れ、鉄道の駅の近隣に移転されていった。これにより都市内の輸送手段も水運から鉄道などの陸上交通へと変化したといえよう。そして、川辺の空間としての河岸も姿を消していった。

3)太平洋戦争と交通網

 1937(昭和12)年にはじまった日中戦争は、その後太平洋戦争(1941〜45年)へと拡大していった。戦争開始とともに自動車交通は、ガソリンの使用制限や自動車の徴収などにより打撃を受けた。また、鉄道網も太平洋戦争終盤の空襲により、壊滅的な状況であった。

 こうした状況のなか、水運は再度見直されはした。しかし、これまでの陸上交通網重視の結果、河岸地は荒廃してしまい、水路があっても陸揚げすることもできない状況であった。

第5節 水路としての終焉期(第4期)

1)戦後の復興事業と灰燼処理

 東京の町は、太平洋戦争による壊滅的な被害を受けていた。戦後の復興は、戦災により発生した大量の灰燼(残土と呼んだ)の処理からはじまった。1946(昭和21)年から、東京都では区画整理事業の一環として残土処理がおこなわれた。しかし、翌1947年になると、インフレと国からの補助金削減のため、残土の多い都心各区はこの区画整理事業から外されてしまった。

 こうした状況の下、東京都は残土対策として「比較的流れが止まったりして、現在舟行に役立たない」川、「浄化の困難な」川を残土で埋め立て、土地を造成し売却することで、事業費を捻出する方法を採った。この対策には、少なくとも都心の残土だけは隠したいという占領軍の意向も含まれていた。しかし、河川が「現在舟行に役立た」なくなったり、「浄化が困難」になったのは、戦時中の「戦力総動員」による河川管理の放置の結果であった。

 この計画の実施により、旧江戸城の外濠を手始めに、東京市街を流れる水路の埋め立てがはじまった。真田堀(現、上智大学グラウンド)や呉服橋〜鍛治屋橋間の外濠、神田の竜閑川などが早い時期に埋め立てられた。日本橋川周辺でも、南半分が残っていた東堀留川や新川、三十三間堀川などが同じ時期(1948年頃)に埋め立てられている。なぜ、水路を埋め立てることになったのか、それは「残土を埋立地に運ぶトラックがない。よしんばトラックはあってもガソリンがない。やむを得ず川を埋めたのだ」(当時の責任者の回顧)*8)ということである。

 江戸〜東京の町の伝統的な交通路で会った水路は、残土処理のために埋め立てられてしまった。これにより東京都内の水運は急速にその機能を失い、自動車交通にその役割を譲ることとなった。

2)自動車時代の到来

 日本の戦後は、「自動車王国」アメリカ合衆国(以下、合衆国)を中心とする連合軍により統治されたことからはじまった。連合軍は戦争により破壊された都市交通機関に代わって、ジープを「下駄」同様に使っていた。こうした経験上、日本では復興にあわせて、自動車も急速に普及していった。その結果、直面したのが交通問題である。1950年代後半からのモータリゼーションは、道路渋滞や交通事故の激増、駐車場スペースの不足など、東京都心部の道路事情の悪化を招いたのである。

 これ以降、東京都心部の道路事情改善のために、水路は道路用地として利用されるようになる。その最初の例が「会社線」と呼ばれる東京高速道路株式会社の自動車専用道路である*9)。この道路は江戸〜東京の町を支えつづけた外濠を埋め立て、その跡地に作られた道路である。この「会社線」は1959年に部分開業し、1966年に土橋〜新京橋間の全線が開通している。しかし、都心部の道路事情はなかなか改善されなかった。

 1956年オリンピック会場に東京都が仮決定されたことは、都心部の道路事情改善の大きな契機となった。この仮決定以降、東京の町は1964年の東京オリンピックに向けて大きく動き出した。1958年度から道路整備緊急措置法に基づく第二次五か年計画が発足し、翌年には首都高速道路公団が設置された。こうして、ようやく東京都心部の道路事情は改善されはじめたのである。

3)首都高速道路の建設

 首都高速道路の建設は、やはり水路の埋め立てからはじまった。この理由には、高速道路用地確保の原則として、公共用地(一般街路・河川・埋立地など)の利用を中心とする方針があったためである。こうした方針には、水面はすべて公共用地のため、土地の買収・補償がなくて済むという経済的効率優先の考えしかなかったからである。こうして、なるべく時間を掛けず、オリンピックに間に合うように首都高速道路は建設され、数多くの水路が埋め立てられていったのである。楓川・築地川が埋め立てられ、高速1号線(現、高速都心環状線の一部)に生まれ変わったのは、1962年から翌年にかけてのことであった(図2-10)。

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図2-10 高速道路の架設年代
資料:中央区三十年史より作成

 これと時を同じくして、日本橋川の流路上にも高速4号新宿線の一部(現、高速都心環状線の一部)が架橋され(1963〜64年)、「東京の顔」の一つであった二本橋の上空にも首都高速道路が通ることとなったのである(写真35・36;図2-10)。このように、江戸〜東京の町の経済・流通を支えてきた水路網は、埋め立てられ道路に変わったり、水路上に道路が架設されたりして、運河としての役目を終えたのであった。

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写真35 西河岸橋からみた日本橋

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写真36 日本橋川北詰(右手が道標の広場、高架にに「日本橋まつり」の横断幕がみられる)

 日本橋川には、その後も首都高速道路の架設が続いた。1967〜69年にかけて高速5号池袋線が、1971年に高速6号向島線が、それぞれ日本橋川の流路に蓋をするように架けられた(図2-9)。このため、日本橋川の流路のほとんどが首都高速道路に覆われてしまった。

注および参考文献

*5)江戸時代の治水技術の思想は、「低水工法」であった。これは「治山・治水」を基本とするもので、水源地を保護し、土砂の流入を最小限に抑え、河床の上昇を防ぐというものであった。これに対し、明治以降の治水技術の思想は、「高水工法」である。この思想は、いわば「力には力で」ということで、水源地付近の開発による洪水の多発には、堤防のかさ上げで対応するというものである。これは現在の治水思想の基礎となっている。
*6)第一次世界大戦により、船舶事情が窮迫したため、河川交通による輸送は鉄道輸送へと切り替えられていった。
*7)神田中央卸売市場は、現在大田区へ移転し、「大田市場」となっている。
*8)中央区役所(1980):『中央区三十年史 上巻』ぎょうせい.1248p.
*9)東京都心部の高速道路は、現在二つの経営体により運営されている。一つは首都高速道路を経営している「首都高速道路公団」であり、もう一つがこの「東京高速道路株式会社」である。


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