大木式土器の変貌(3)【縄文DX ー会津・法正尻遺跡と交流の千年紀ー】後編
前回に引き続き、福島県立博物館の企画展「縄文DXー 会津・法正尻遺跡と交流の千年紀 ー」(2024/7/6~9/1)に出展された大木式土器を観察します。
福島県福島市のじょーもぴあ宮畑のパネル解説と、調査報告書「法正尻遺跡」[1]を参照しながら、法正尻遺跡の大木式土器が持つ特徴に注目します。前編では大木6式から大木7b式までの土器を扱いましたが、今回は大木式土器の最盛期である大木8a式とそれ以降の土器を取り上げます。また大木8a式期に盛んに作られた火炎系土器や、会津と新潟の関係についても考えます。
大木8a式期
じょーもぴあ宮畑のパネルでは大木8a式土器の特徴は以下のように説明されました。
大木8a式の特徴(宮畑解説)
① 大木7b式から顕著になる渦巻文は大木8a式に引き継がれ、文様の中心的な位置を占めるようになる。
② 大木7b式では胴部の上半に限定されていた文様が、胴部全体に広がる。また、胴部には横の区画が追加されることで、縦長の短冊形であった区画が方形になる。
③ 口縁部には中空になる装飾がつけられるものが出現し、渦巻を組み合わせた立体的で中空の把手がつけられるものも見られるようになる。
さらに「大木8a式の段階は文様が土器全体に施されると同時に複雑さが増し、縄文時代を通してもっとも美麗で豪華な土器がつくられる、造形美の極まった時期」とも述べています。また法正尻遺跡では火炎系土器の中心的な時期も大木8a式期です。「縄文DX」でもこの段階に一番力を入れていることが感じられ、豊富な土器が展示されていました。
「法正尻遺跡」[1]では、大木8a式期を時期ごとに3段階に細分していますので、これに沿って各時期の土器を見ていきたいと思います。
大木8a式期(古)
前回の大木7b式期と同様に、一括性の高い(廃棄された時期が近いと推定される)土坑や住居跡の土器に基づいて、時期を区分します。大木8a式期の中では552号土坑から出土した土器に、大木7b式土器の文様要素や図形が見出されることから、最も古い段階に位置づけています。552号土坑の土器の特徴は次のようにまとめられています。
図1はそろばん玉を縦に伸ばしたような、中ほどが外側に張り出した器形が特徴です。これとよく似た形の土器は415号土坑の大木7b式土器(図2)にも見られます。
図3のような、口縁の突起が全周するスタイルの土器が現われ始めます。大木8a式期(古~中)の段階では、この土器と似た印象を持つ土器が多数見られます。具体的には口縁部の横方向・上方向に盛り盛りの中空突起、少し開いた円筒に近い器形、胴部の上から下まで広がる縦横のクランク文や渦巻文、という構成で、ある程度規格化されているように思えます。華やかだけれどどこか武骨で地味でもある、という独特の渋い味わいが楽しめる時期です。
大木8a式期(中)
次の段階は、365号土坑、492号土坑の土器で代表されます。これらの土器の特徴は次のように整理されます。
図4は8a式古段階から続く口縁の突起が全周する土器です。
ちなみに口縁部に突起が全周する土器は、会津から新潟にも伝わりました。図5左は新潟県津南町の堂平遺跡から出土した大木8a式土器です。また口縁全周を突起で装飾するスタイルは、新潟で大木8b式から派生した、栃倉式と称する土器にも引き継がれたと考えます。図5右は同じく津南町の沖ノ原遺跡の栃倉Ⅱ式土器です。
法正尻遺跡に戻って、次の二つは突起の幅が狭まって高くなるタイプの土器です。
図7は隆帯や粘士紐・沈線で文様を描き、口縁部にはC字・S字・J字状の粘土紐で組み立てられた中空の把手があります。平縁のキャリパー形土器に、左右非対称の把手が4単位配される構成は、鶏頭冠突起の火焔型土器と同じです。なんだか、大木8a式のフォーマットに沿って作られた、火焔型土器のプロトタイプのようにも見えます。
図8は福島では希少な、波状口縁を持つ火炎系土器で、沈線を多用して文様を描いています。図録[3]では新潟の王冠型土器の影響を受けたと説明されていますが、前編で取り上げた法正尻遺跡の大木7b式期の火炎系土器(図9)の発展形とも考えられます。口縁の波頭にS字文が置かれ、波底の付近に眼鏡状突起に似た突起があります。また無文の口唇に沿って粘土紐の波状文が施されています。口縁部と胴部は二本の隆帯で区画され、区画帯は波頭直下の橋状の小突起で4つに区分されています。こうした区画帯は次の段階の火炎系土器の多くにも見られ、法正尻遺跡の火炎系土器の特徴と言えます。
大木8a式期(新)
大木8a式期の新段階は、次のような特徴を持ちます。「宮畑解説」と比較すると、この段階では法正尻遺跡の土器の様相は、福島市周辺とはかなり異なるものになっていることが分かります。
この段階で一括性が高いとされたのは、1号住居跡、313号土坑、333号土坑、472号土坑です。そのうち出展数が多い333号土坑の土器について、出土位置が下から上の順に並べてみました。ただし土器同士が互いに接していたことから、これらの土器の間に時間差はないと考えられているそうです。
土坑の底近くから見つかったのは図10、図11の火炎系土器です。口縁部には鶏頭冠状の突起があり、沈線を多用して文様を描いています。文様は基本的に、突起部から伸びる隆帯で渦巻文を描き、これに沿って沈線文を密に施しています。図11の胴部には縄文がなく、沈線文が縦位・渦巻状に施されています。どちらにも図8と同様の区画帯があります。
図12は口縁部が内湾する樽型の深鉢で、中空の突起が付けられています。突起のうち対向する2つは上を向いた円筒形で、各突起の両側にS字文が対称に配置されています。こうした円筒形の突起は大木8a式期に法正尻遺跡や石生前遺跡など会津地域でよく見られ、「縄文DX」にも類似の突起をもつ土器がいくつか出展されていました。
図13の大小2つの土器は、「縄文DX」では大木8b式として展示されていました。実際、後で示す図19の大木8b式土器と器形や文様の特徴がほとんど同じです。大木式土器の組成は複数の類型を含むので、類型の変化と型式の切り替わりのタイミングが一致せず、時期的に8a式期だが型式としては8b式、というずれが生じているのだと思われます。
図14は口縁部に大型の中空突起が付けられ、口縁部文様帯は隆帯で上下に区分されます。胴部は沈線で横に連続する渦巻文が施されています。法正尻遺跡ではこれと似た中空把手の破片も別に出土しています。
新潟の道尻手遺跡からは図14の中空把手と良く似た把手を持つ大木8a式土器が見つかっており、法正尻遺跡など会津地域の中空把手をモデルにした可能性があると思われます。
大木8b式期
じょーもぴあ宮畑の解説では大木8b式土器の特徴を次のように述べています。
大木8b式の特徴(宮畑解説)
① 渦巻文が文様の主体となり、大小の渦巻が土器全体に配置される。
② 大小の渦巻が連結することで、土器の胴部を一周する唐草文様が出現する。
③ 口縁部にあった立体的な装飾は姿を消し、等間隔で渦巻が配置されるだけのシンプルな文様に変化する。
④ 口縁部と胴部の区画が消失し、口縁部から胴部まで一続きの唐草文様が施される土器が出現する。
⑤ それまで文様の背景であった縄文地の部分が唐草文などで細かく区画され、区画自体が楕円形や不定形の文様として意識されるようになる。
大木8b式期の法正尻遺跡の特徴は以下のようなものです。
口縁部の突起は残る一方で、「宮畑解説」で強調される大小の渦巻の配置や唐草文様はあまり目立ちません。大木8b式期の法正尻遺跡は、火炎系土器以外の部分でも、福島市周辺の遺跡とはかなり異なっているようです。
図16はこの段階の火炎系土器で、鶏頭冠突起を持ちますが、胴部は沈線ではなく縄文が施されます。また前段階まで見られた、口縁部と胴部の境の4つに区分された区画帯もなくなっています。「縄文DX」ではこの土器は大木8a式と表示されていました。
図17は2単位の箱状把手を持つキャリパー状の深鉢で、横位に施された隆帯で口縁部文様帯を上下に区分しています。この隆帯は、一部で渦巻文を描いています。上部には縄圧痕文、下部には粘土紐の弧状文を施しています。
箱状把手も新潟に伝わっています。長岡市の栃倉遺跡では大木8b式に相当するキャリパー形の土器が、よく似た箱状把手をやはり2単位持ちます。図18は箱状把手が複雑化したと考えられる把手を持つ、新潟の大木系土器です。
再び法正尻遺跡で、図19は口縁部が内湾する樽型の深鉢です。口縁部には、中空の突起があります。突起間は、隆沈線による対弧文で繋がれています。図12の大木8a式の樽型土器と比べると、上に円孔のある突起1対と眼鏡状様の突起1対という組合せは同じで、同一の系譜にあることが分かりますが、装飾は大幅に簡略化されています。
図20が出土した347号土坑からは、器形や文様がほぼ同じ土器が3つまとまって見つかっています。胴部が膨らんだキャリパー状の深鉢で、口縁部には隆沈線で端部が渦巻状をなすクランク状の文様を描いています。図13に示した大木8a式期の333号土坑の土器も良く似ており、この時期の法正尻遺跡の土器の代表的なデザインの一つとして規格化が進んでいたと思われます。
じょーもぴあ宮畑で見られたような、胴部に配置された渦巻文を隆帯で網目のようにつなぐ唐草文様は、法正尻遺跡の大木8b式期にはあまり見られないようです。代わりに、小さな渦巻文を直線の隆帯で縦方向につなぐ、図21の土器がありました。この縦位の隆帯は、新潟で大木8b式から派生した土器にしばしば用いられる腕骨文[5]と似ています。
「縄文DX」の他の土器を探してみると、ちゃんとした写真は撮り損ねたのですが、大木8b式土器のケースの隅っこに展示されていた、上がすぼまった円筒形の土器にも腕骨文らしきものが見られました。
図23は、腕骨文をもつ新潟の大木系土器(栃倉式)です。津南町の道尻手遺跡で出土しました。図21の土器と比較すると、緩い波状口縁と二つ割になった口唇、口唇上の上向き渦巻文、無文の口縁部と、腕骨文だけでなく多くの共通点があります。図21、図22の土器は、腕骨文が図23と比べ少し崩れていますので、新潟で地域的変容を受けた大木8b式土器が会津に逆移入された例だったのかも知れません。
大木9式期以降
大木9式、10式期の土器については、「縄文DX」の法正尻遺跡からの出土品は図24の大木10式土器1点のみでした。
実際には、複式炉を住居に備えた大木9~10式期にも、法正尻の集落は活動が盛んで土器も多数出土しています。今回はそれらを実際に見ることができませんでしたので、観察はここまでとしたいと思います。
まとめ
福島県立博物館の企画展「縄文DX」に出展された大木式土器を、じょーもぴあ宮畑の解説と、法正尻遺跡の調査報告書を参照しながら観察しました。福島市周辺の遺跡と比較すると、法正尻遺跡の大木式土器には様々な外来の土器の強い影響が感じられました[6]。大木6式期以来の北陸系土器、大木7a~7b式期の関東系土器、そして大木8a~8b式期には完全に在地化し類型の一つとして土器組成に加わった火炎系土器の存在があります。そのため「宮畑解説」とは必ずしも整合しない様相も多く見られました。また、大木式は複数の類型から構成されるため、型式の切り替わりと類型の変化のタイミングが合わない例もありました。
縄文時代における地域間の土器情報の伝搬は、文字などの媒体によらず人間同士の直接伝達が基本ですから、多くの場合は単一方向的ではなく、双方向的・相互的なものであったろうと私は考えています。会津と新潟の関係では、火炎系の土器が新潟から会津に伝えられたことが強調されるのが常ですが[3]、本稿では、その逆に会津の土器が新潟に影響を与えたと推測される例をいくつか挙げました。
図25左は新潟県十日町市の横割遺跡から出土した土器です。前編で取り上げた法正尻遺跡の大木7a式土器(図25右)と、器形、口縁の突起、胴部のY字状隆帯など多くの点が一致しています。このように、火焔型土器が成立する以前の大木7a式期の時点で、会津から福島への土器情報の流れがあった可能性を示す例があります。
法正尻遺跡の火炎系土器を見ていてもう一つ感じたことは、会津の火炎系土器を新潟の火焔型土器に対して後発で別々のものと考えるのではなく、同時代かつ同一の土器群に属すると考えてもよいのではないかということです。土器型式で例えれば、中部高地の井戸尻系土器に対する西関東の勝坂式土器、ないしはもっと積極的な位置づけです。大木式土器圏の周縁地域である新潟へ大木式土器の情報が波及する流れがまずあり、同じネットワークをさかのぼって北陸系土器の情報が会津に向かいます。それにより新潟から会津にかけて大木式・北陸系土器双方の技法を濃密に共有する地域が生まれます。この地域内で継続的に土器情報を交換しながら成立したのが火焔型/火炎系類型ではないか、そういうシナリオを想像したのでした。
最後に、企画展「縄文DX」で法正尻遺跡の土器を間近に見る貴重な機会を作って下さった福島県立博物館の皆様に深く感謝いたします。たいへん長文となりましたが、お付き合い頂きどうもありがとうございました。
参考文献
[1] 福島県文化センター遺跡調査課「福島県文化財調査報告書243:東北横断自動車道遺跡調査報告 法正尻遺跡」福島県教育委員会 (1991)
[2] 津南町教育委員会「津南町文化財調査報告59:堂平遺跡」津南町教育委員会 (2011)
[3] 福島県立博物館「縄文DXー 会津・法正尻遺跡と交流の千年紀 ー」(展示図録)福島県立博物館 (2024)
[4] 津南町教育委員会「津南町文化財調査報告47:道尻手遺跡」津南町教育委員会 (2005)
[5] 水沢教子 「大木8b式の変容(上)」、長野県埋蔵文化財センター研究論集1:長野県の考古学、p84-123 (1996)
[6] 山元 出「法正尻遺跡の外来系土器」文化財講演会:縄文時代講座 2 福島県文化財センター白河館 (2021)
[7] 十日町市博物館友の会「十日町市の縄文土器」(2007)
福島県立博物館
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