野木町の縄文(2) 松原北遺跡の縄文土器
前回の記事では、栃木県の野木町郷土館の常設展示のうち、主に縄文時代の出土品の概要をご紹介しました。今回は郷土館に展示されている松原北遺跡の土器について、野木町教育委員会/編「松原北遺跡 友沼西部土地区画整理事業に伴う埋蔵文化財発掘調査」[1]を参考にしつつ、考察を加えたいと思います。
松原北遺跡は町の北西部、野木町大字友沼にあります。利根川水系の思川東岸の河岸段丘上です。発掘調査では縄文中期中葉~後葉の大規模な集落跡が確認され、阿玉台式期~加曽利E1式期の土器が出土しました。
土器の観察記録
郷土館の展示品の土器と報告書[1]の写真や実測図を照合し、該当する土器を特定して観察記録を抜粋しました。以下での土器の番号は報告書[1]での通し番号に従います。
観察記録にあるように、この土器には把手がもう一つ見つかっていて、両方揃うと下図のような状態になります。
No.100もNo.80も口縁部の直下に交互刺突文が見られます。
縄文の地文に平行沈線の垂下文や隆帯の渦巻は、勝坂式というよりも東北の大木式風の趣きがあります。
火炎系土器
新潟の火焔型土器の影響を受けて、特徴的な鶏頭冠状の突起を備えた土器が、福島・栃木・群馬などの周辺地域から出土します。これを火炎系土器と呼びます。
上の分布図を見ると松原北遺跡の火炎系土器は分布のほぼ最南端に位置していることが分かります。
関東の火炎系土器の中でも群馬と栃木では文様の傾向が異なり、栃木のものは会津の火炎系の系統を引いていると言われます。上図には新潟の火焔型土器と福島から栃木へと南下する火炎系土器の例を並べてみました。土器が遠くまで伝わる間に次第に元のフォーマットから崩れてゆく様子が分かります。
会津の寺前遺跡までは見られた口縁の鋸歯状突起が那須の三輪仲町遺跡では無くなり、口縁部や胴部のカマボコ状断面の半隆帯の文様も県央の金井台遺跡ではへらによる沈線で書き込まれるようになります。「栃木県域の火炎系土器は、主文様を欠き、沈線で器面を埋めることによって、火炎土器的な雰囲気を出している土器が目立つ」 [3] と言われています。
火炎系土器の口縁部の文様は渦巻文やS字文などの曲線で埋められることが多いのですが、松原北遺跡の火炎系土器は口縁部・胴部ともに主に縦方向の平行沈線で充填されています。これと似たような文様構成の火炎系土器は他にも栃木県内で見られます(上図)。これらのうち左と右のものは突起も鶏頭冠状ではなく双環の眼鏡状突起に変化しています。
松原北遺跡には火炎系土器との関連が気になる土器がもう一つあります。上図のNo.52です。報告書[1]では、
となっていますが、把手の上端のギザギザが鋸歯状突起のようにも見えます。火炎系土器の中には下図の槻沢遺跡の土器のように貫通孔のある板状突起の上部に凹凸をつけて簡易な鶏頭冠突起としているものがあります。また福島の妙音寺遺跡の土器では貫通孔の両脇の円文がNo.52とよく似ているように思えます。残念ながら部分のみの出土でこれ以上確かめようがありません。
大型把手
隆帯に沿った複列の爪形文で、展示されている土器の中でもとりわけ精緻な施文が加えられた大型把手です。施文の技量が他の土器と比べ突出していて、搬入品のようにも感じられます。なお、報告書によると展示は上下が逆で、本来は下図のような向きになります。
上の土器は報告書[1]で該当する土器が分かりませんでした。代わりにこれとよく似た文様をもつ土器を別の文献[4]で見つけました。
刻みの入った隆帯による円形区画が口縁部に置かれ、内側を縦の沈線で充填しています。胴部は縄文のみです。文献[4]では「勝坂式的」な「”合いの子”土器」と位置づけられています。「1 は貫孔把手と円形文を対置して4 単位の口縁文様帯とするもので、隆線で連鎖し余白を三刻文や縦列沈線で充填する。胴部の地文は縦転しの条列施文で大木流儀だが、底部を素文化する勝坂流儀を併用している。このタイプの土器は北関東周縁にまで広まっており、高根沢町・上の原遺跡や上三川町・島田遺跡などの土壙出土の土器群では、末期の阿玉台式と共伴している。」 [4] と述べられ、栃木県域にも分布していることが分かります。子和清水貝塚は、中峠式土器の中心地域である下総台地北西部にあり、土器の類似性からこの地域と松原北遺跡との交流ルートが推測されます。
大木系加曽利E1
No.95は口縁が外反して、いわゆるキャリパー形ではありませんが、加曽利E式の一類型としてよく見られる土器です。「ラッパ状の器形をなし、肥厚・内折した口縁部に交互刺突文と刻み目を施す。波状口縁の頂部にはたらこ状紋や短い縦位の粘土紐などが付く。」[5]という特徴があります。
上図のように栃木県の島田遺跡でも出土しています。このタイプの土器の原型は大木式にあり、外反した口縁が二重となって波状口縁の頂部付近に隆帯の渦巻文をもつ土器です。
浅鉢の展示はNo.71のみです。
写真右の甕も、該当する縄文土器が報告書[1]には見つかりませんでした。器形や地肌の様子から、弥生土器または土師器なのかも知れません。
隆帯押捺型
No.25は粗製土器(?)となっていますが、浅い波状口縁にキャリパー型の器形でほぼ全面が縄文という点から、勝坂式や阿玉台式よりは大木式の系統と思われます。口縁周りのみですが有節沈線が使われているので七郎内Ⅱ群土器に近い可能性があります。
No.56も大木式に属する隆帯押捺型の土器[6]と思われます。下図のように、栃木県では北部の那須地域でよく見られるものです。
展示ケース
以下は見出しの写真に用いた展示ケースの4つの土器です。それぞれ「加曽利E1式」「中峠式」「勝坂式系」「阿玉台式系」を代表する土器として並べられています。
20号住居址出土のNo.94と共通点の多い土器です。ともに剣先文、剣先渦巻文、背割れの横S字文など大木式の影響が見られます。
いわゆる中峠0地点型の深鉢です。次の勝坂式と比べて施文が丁寧で良くできています。さきに述べたように中峠式土器の中心地域と松原北遺跡との密な交流が推測されます。口縁部に見られる交互刺突文は中峠式を象徴するような文様ですが、本遺跡ではNo.100, No.80, No.54, No.95, No.43と勝坂式から加曽利E1式まで多数の土器に用いられています。
勝坂式末と言っても、南関東の勝坂Ⅴ式とは様子がかなり異なります。次には加曽利E1式期に移行する直前の段階ということのようです。
この土器は阿玉台式系とはなっていますが、器形や突起などの見た目は勝坂式の雰囲気が強く、見るからに阿玉台式という印象ではありません。
同じ16b号住居址からは上図のようにもっと典型的な阿玉台式の土器破片も出土しているのですが、残存部分が少なかったため、No.63の展示になったのだろうと思われます。
各住居址の土器系統
まとめとして、複数の土器が展示されている住居址について、それぞれの土器の系統を大雑把に整理してみました。
以上、盛沢山すぎて乱雑な内容となってしまいましたが、執筆者としては多くの系統の土器が交錯する本遺跡の縄文土器を満喫することができました。長々お付きあい頂き誠にありがとうございました。
最後に、野木町郷土館をボランティア活動により支えられているという野木歴史文化伝承会の皆様、貴重な発掘報告書をご提供頂いた野木町立図書館の皆様に深く感謝いたします。
野木町郷土館
所在地:栃木県下都賀郡野木町丸林571
休館日:月曜・祝日・年末年始
閲覧時間:9:00~16:00
料金:無料
参考文献
[1] 野木町教育委員会/編「松原北遺跡 友沼西部土地区画整理事業に伴う埋蔵文化財発掘調査」野木町教育委員会 (2001).
[2] 寺崎裕助「茨城県水戸市塙東遺跡の 「火炎土器」 について」新潟県立歴史博物館研究紀要/新潟県立歴史博物館 編 4 (2003): 18-22.
[3] 塚本師也「縄文時代中期中葉 「浄法寺類型」 の文様に関する覚書」研究紀要/とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター [編] 30 (2022): 1-24.
[4] 海老原郁雄「北・東関東の揺籃期・加曾利 E1 式土器」研究紀要/とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター [編] 1 (1992): 1-25.
[5] 西川博孝「海老ケ作貝塚第 14 号住居址出土土器 (1403 深鉢) について」飛ノ台史跡公園博物館紀要/船橋市飛ノ台史跡公園博物館 編 18 (2022): 13-32.
[6] 塚本師也「栃木県北部における異系統土器の共存と異系統文様の同一個体共存-縄文時代中期前・中葉の事例」研究紀要/とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター [編] 29 (2021): 1-35.
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