『ナミビアの砂漠』
映画を観たあとに、YouTubeでみたナミビアの砂漠(ライブ配信)。オアシスには知らない同じ種類の動物がぞろぞろと集まっていて、調べると彼らは「オリックス」という動物らしかった。ナミビア国の国旗にも象られているという彼らはのそのそと、いっこうにそこから去る気配もなくオアシスの周りをうろついていた。しかし、その数時間後に再び配信を開いてみると、今度は知らない馬の群れが集まってきていて、オリックスはもういなくなっていた。その馬の名前を調べる気力は残っていなくて、しばらくそのまま配信を流しっぱなしにした。
あのオアシスは、人工らしい。人が作ったオアシスに動物が群がっているさまを、人が作ったカメラとインターネットとYouTubeとスマホを通してわたしたちは観ている。自然からのセラピーというのはどこか「人工的なものから離れること」に価値がおかれていると思うのだが、その自然を作っているのすら人間という、今の時代を象徴するようなライブ配信だと思う。『ナミビアの砂漠』主人公のカナの生活のどこかしらに、この配信を観ている瞬間はある。
カナは、おそらく狂った。自分にとって許せないこと。つまり受け入れがたいこと、価値観に耐えられなくなった、とみられる。だが、それに名前をつけることができない。直面したことが原因で自分が壊れてしまいかねないものなのに、その正体がつかめないという終盤の展開にひどく共感してしまった。わたしも「絶対にこれに自分自身が関わっているわけにはいかない、ダメだ」と強く感じてある仕事から社会規範を超える速度で離れた経験があるけれど、じゃあなんでそう思ったのか、と問われるといまだに答えに詰まる。答えらしい答えが口をついて出はすれど、そのどれも確信に至っていることではない。そのくせはたからみると一大決心みたいに見えるものだから、もっともらしいことが言えなくてごめんねと思う。いっそ誰かに名状してもらえれば楽になるのになかなか名前をつけてもらえない。カナもまたはっきりした病名を欲しがっていた。けれど心は目に見えない。おそらくこう、という不確実性がメンタルヘルスの厄介なところで、診断書発行の有無が患者に委ねられる場合もあるけれどそれは一つも安心材料ではない。
はたして、カナは癒やしとしてあのライブ配信を観ていたのだろうか。何もないところに動物が集まってくる姿に癒やされたというのは優等生的な回答で、ひょっとすると若干低俗な「キリンやチーターをSSRランクとして、珍しい動物が来るのをガチャ的に待つ」みたいなことをしていた可能性だってある。ともかく、カナはこの映画の中で「ナミビアの砂漠」については一ミリも言及しない。けれどもオンライン診療の医師のZoom背景や箱庭療法の砂のように、砂漠のモチーフは彼女について回る。
人間は、のどが乾いたらオアシスに行って水を飲み、それである程度のことが解決するような動物ではない。解決するように見せかけて実際は先延ばしで、本質的には解決しないことばかりだ。いくら脱毛したって毛は生えてくる。カウンセリングに行っても答えらしき答えは返ってこず、ただ問いの回数が増えるだけ。和やかなぬいぐるみを介した会話が行われた数分後に振るわれる暴力。文明だけ高尚になって、とにかく何一つ解決しないという絶望をこれほどまでに映した映画があったか。生きていくことの難しさ、一様でなさという、至極真っ当な学び。
カナにとって中国語が光明になれば良いなと思った。わたしたちは未知に呪われるけれど、同時に救われる可能性もまたある。カナが何度も「ティンプトン(わからない、の意?)」と言っていたラストシーンに、「わからなさ」を飛び越えられる可能性を感じた、いや信じて勝手に重ねた。