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市民活動支援が全体主義に屈するとき――「東北の春」に向けて(07)

Y市には、「Y市コミュニティファンド」という市民活動支援基金のしくみがある。これ自体は別に珍しいものでも何でもないが、Y市の場合、そこに「公開プレゼンテーション」というしくみが併設されている点がユニークである。「公開プレゼンテーション」とは、ファンドの助成金をどのNPOや市民活動グループにあたえるかを、行政官や専門家が決めるのではなく、市民自身に決めてもらう、という市民投票のしくみである。

かなり頻繁に活用させてもらっている制度だが、これに関連して、つい最近ある気がかりなできごとがおきた。今回は、そのことについて書く。

私たち「ぷらっとほーむ」では今回、若い人びとの間でヘイトスピーチ(差別煽動)や歴史修正主義が広がっていること、その背景に、彼(女)らが差別や排除の問題についてきちんと学ぶ機会を与えられずにきたこと、にもかかわらず、来年からは「18歳選挙権」がスタートし、若い人たちもまた否応なく責任ある判断や決断を迫られるようになること、といった問題意識から、「民主主義をやりなおす(実力養成!デモクラシー講座)」と題した事業提案を行った。「民主主義」「戦後日本」といったテーマについて参加型の連続講座を開催し、最後にその成果を冊子にまとめる、という企画だ。

ありがたいことに、プレゼンではそれなりの得票があり、助成事業として採択された。その後は、補助金の交付も受け、毎回「安保法制の論点」「デモの機能」「戦後70年の時代区分」「ヘイトスピーチ」といったテーマをたてて、参加した若者たちと自由に議論を行い、互いに自身の考えを深めたり疑ったり強めたり、といった学びの時間を過ごしてきた。しかし、である。

あるとき、たまたま訪れたY市のファンド担当課にて、職員より「こちらの事業に対し市民から度々苦情が寄せられている」と知らされた。聞くと、何度も何度も匿名の電話で「こういう政治的に偏った事業に市の税金を使うのはおかしい」と訴えてくるそうだ。その職員曰く、「そのクレームを以て、あなたたちにどうしろということはない。ただ、そういう苦情がある以上、十分に反省して、くれぐれも偏りのないように、中立的な立場でとりくんでほしい」とのこと。「でないと、Y市の補助事業として不適切ということになり、補助金を返還してもらうことになる」とも。

反省? 慎重に? 偏らず中立に? 言っている意味がよくわからない。だって私たちは、市民投票で選んでいただいた――それなりの数の市民が「この事業には公共性があり、市税を用いて実施するのにふさわしい」と判断してくれた――からこそ、信託されたその内容の事業を進めているのだ。それを無視し講座内容を軌道修正することは、票を投じてくれた方たちだけでなく、「Y市コミュニティファンド」の趣旨そのものを踏みにじることを意味する。

考えてもみてほしい。あなたが誰かに「自分が偏っていない」ことを証明しなければならないとしよう。果たしてそれは可能か。答えは否。あなたとその誰かが異なる人格である以上、自分から見てその相手は必ずどこか偏っているし、逆もまた然りである。要するに、偏っていない人――より正確にいうと「偏っている」と言い募られずにすむ人――などどこにもいない。あなたは偏っているし、それを指摘する相手もまた偏っている。

そう考えると、私たちにはそもそもこの事業を「偏りのないように、中立的な立場で」やりとげることは不可能である。さらに、この理屈からすれば、公的な機関・施設がとりおこなう事業の大半には「偏り」があり、公金の支出対象としてふさわしくない、ということになる。昨今、あちこちで「偏り」を理由に使用許可を取り消されたり、番組を降板させられたり、指定管理者契約を解消されたり、といったケースが続出しているが、これらはまさに、上記のロジックの行きつく先を示しているといえる(もちろんそこには、「みんな同じ」をよしとする全体主義の世界が広がっている)。

さて、ではどうするか。全体主義の対極にあるのは、多様性や複数性にみちあふれた世界である。多様性や複数性というのは、人びとがそれぞれさまざまな「偏り」を宿し、そうした多数の「偏り」の集積としてはじめて実現されうるものである。政治思想家H・アーレントは、この多様性や複数性を「公共性」と呼び、それらが現出する場を「公共空間」と呼んだ。「同じみんな」をベースにした公共空間ではなく、「それぞれに偏りのあるみんな」をベースにした公共空間へ。既存の政府がそうしたものを私たちに保障してくれないというのなら、私たちがそれを自らの手でつくりだし、社会に実装していくまで。私たちの「春」は、きっとその先にやってくるだろう。

(『みちのく春秋』2015年冬号 所収)

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