教育制度の在り方を問う――岡田尊司『なぜ日本の若者は自立できないのか』(小学館、2010年)評
初めて本書を目にしたとき、評者は「また若者叩きか」と思った。しかも著者は「発達障害」「人格障害」が専門の精神科医(京都医療少年院勤務、山形大学客員教授)とある。最近の若者たちはだめになっており、しかもそれは彼ら自身の責任なのだという例のあの語り口――。
だが、それにしては気になるタイトルである。そこには「日本の若者は自立できない」とある。「日本の」ということは、海外の若者たちは自立できているということだ。では、日本と海外の差異はどこにあるか。若者たちの心や体のありように何か大きな断絶があるわけではない。断絶があるとすれば、それは若者たちの側ではなく、若者たちを取り巻く社会や制度、とりわけ教育のしくみのほうである。本書が照準するのは、まさにその「若者を自立させてくれない」現代日本に特有の教育システムのありかたである。
では、日本の教育の特徴とはどのようなものか。そもそも「若者」も「自立」も、そのありかたは人類普遍のものではなく、時代や社会のありようによって変わりうる。社会が成熟し、人びとがそれぞれの幸せを生きることが可能となった現代社会では、「若者」も「自立」も多様化し、もはや一枚岩ではありえない。ところが、日本の学校教育は、かつてそれが従順な工場労働者を効率よく大量生産し、華々しく経済成長を遂げることができたこととそれへの固執ゆえに、時代が変わり、社会が複雑化して人びとのニーズが多様化した現在も、相変わらず画一的なやりかたを採用し続ける。要は、人びとが生きる現実と教育システムの間のミスマッチが問題なのである。
ではどうするか。世界各地に目を転じれば、同じミスマッチに既に40年以上も前に直面し、さまざまな試行錯誤を繰り返し、自分たちの社会や文化にあった教育のしくみをつくりあげてきた各国のユニークな取り組みが存在する。オランダ、フィンランド、ドイツ、イギリス、スイス、アメリカ、台湾、そして韓国。多様化する若い世代のニーズに合わせ、教育のしくみを多様なものに変えていくこと。私たちには、まだまだやるべきこと、やれることがたくさんある。(了)
※『山形新聞』2011年02月20日 掲載