見出し画像

「自己責任」は無責任――戸谷洋志『生きることは頼ること 「自己責任」から「弱い責任」へ』(講談社現代新書、2024年)

新自由主義の思潮のもと、現代の日本社会にのっぺりと広がる自己責任論。人びとはそのまなざしにより、社会のなかで生きづらさを抱え、誰かに助けを求める人びとを見つけ出しては犬笛をふき、集まった者たちとで血祭りにあげる。「おまえがそうなったのはおまえ自身の責任、誰かに頼ろうとするな」と。そこまで攻撃的ではない人びとも、同じ論理に説き伏せられ、困っているその人に手をさしのべることをとりやめる。「自分には責任がもてないから」というわけだ。

こうした自己責任論の考えかたは、独力で責任を果たしうる「強い主体」を前提としたものだと著者は言う。しかし実際の私たちの世界では「強い主体」を前提にできない場面も多く、そうなると結果的にその人は責任を果たせず、誰も責任を引き受けられない無責任状態が生じてしまう。これを回避するには、人びとの脆弱さ(ヴァルネラビリティ)を前提にした責任論――著者の語彙でいうと「弱い責任」論が不可欠となる。

本書は、ドイツ現代思想などを専門とする若き哲学研究者による「弱い責任」論で、私たちのうちに深く根を張ってしまった自己責任論の解除と、それに代わるオルタナティヴの提案が試みられている。「弱い責任」とは、誰が責任を負うかではなく、誰に対して責任を負うかをめぐって構成されるもの。目の前の困っている誰かに責任を負うのは誰でもよいが、誰もがそれをすることができるよう対処することが、その場に居合わせた者の責任である。誰もがそうしたケアに関与しうるためには、当然ながらそれを支える社会的なしくみ――社会保障――が要請される。

著者はこうした「弱い責任」論のおおまかな構図を、ハンス・ヨナスの「存在論的命令」や国分功一郎の「中動態」、ヱヴァ・フェダー・キテイの「ドゥーリア」、そしてジュディス・バトラーの「哀悼可能性」といった現代思想の諸議論を接合しつつ描き出す。それは、これまでさまざまな思想家や研究者、実践家がそれぞれの文脈で呈示してきたアイディアや知見の断片たちを総合し、ひとつの絵柄にまとめあげる作業となっている。そこに本書の第一の意義があるように思われる。

哲学やら思想やらと聞くと、どうしても私たちはそこに浮世離れした理想論や机上の空論の類――つまりは現実に役に立つ実学から遠くかけ離れた何か――を思い浮かべてしまうかもしれない。だが、私たちの日常的な実践の基盤となっている自己責任論を論理的に解体し、それに代わる責任論の構想をていねいに描き出した本書の実践は、それぞれの現場で自己責任論に足をすくわれ、その営みを妨害されている人びとに対し、より現実的な思考の支えを提供してくれるに違いない。これもまた、哲学や思想の効用なのである。(了:2024/9/20)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?